未成熟のまま高波とたたかってゆかなければならなかった。一九三二年から一九四五年八月十五日までに、わたしがともかく作品を発表することのできた時間は、三年九ヵ月あまりしかなかった。一九三八年(昭和十三年)から三九年の半ばごろまで作品発表を禁じられていたわたしは、翌一九四〇年いっぱい精力的に執筆すると、次の一九四一年(昭和十六年)一月から再び作品発表を禁じられた。この禁止は、日本の侵略戦争の拡大にともなったもので、十三年の折のように、ある期間で、解かれるかもしれないという可能性の見えないものだった。戦争が終らなければ作品の発表禁止もとけないとわかったことであった。一九四五年八月十五日が来てもその年の十月に治安維持法が消滅するまでは、すべてのジャーナリズムがもとのプロレタリア作家の作品をのせることに躊躇した。これは、それまでの言論出版制圧が、どれほどひどい文化の萎縮をもたらしていたかということの証明になる。一九四六年一月にいち早く創刊・復刊された諸雑誌の創作欄が戦争協力作家でなくて、しかもプロレタリア作家でなくてポスター・バリューのある作家を求め、永井荷風へ一致して、その作品が各紙を飾ったのも
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