ムと亀井勝一郎その他の日本ロマン派と入りみだれていた。この「乳房」が、作家にとって数年をけみしながらいわばはじめて芸術作品らしいリアリティーをもって完成された作品であったと同時に、それが客観的には従来の意味でのプロレタリア文学の最後の一篇として存在したことも意味ふかいことである。
「乳房」は一般に好評であった。ただ、ブルジョア文学の読者の間には、わかりにくい、むずかしい、という批評があった。「乳房」に即して、このむずかしいという批評を分析してみると、それは作者の表現の到らなさというよりも、より多く当時公表された小説がめぐり合わせている検閲の制約によっている。『中央公論』へ発表されたときには、警察関係の部分にいくつもの伏字があった。そんな工合であったから当時運動に無関係に生活している人々の実感には、働きかけることの鈍いちょっとした暗示、うらがえしから表現されている技術。そういう点が、ブルジョア小説の言葉を惜しまず語りつくす手法になれた読者にむつかしい感じを与えた。また、「乳房」一篇のはじめから終りまで流れとおしている感情の緊張も、ブルジョア小説の緩徐調に配合されているところどころのヤマの緊張より、はるかに密度のたかいものである。その緊張に共感してゆくにつれ読者の心はひきしめられ、精神がしまってゆく。その感覚は、文学に習慣づけられていた有閑のくつろぎと反対な性質のものである。「乳房」は白昼の光線にてらし出された生活の上にリアルな闘いのいきさつが展開されているのである。一時の、クライマックス的事件のスリルの描写としてではなく。人民と権力との抗争と現実がこんにちにおいてもそうであるとおり、毎日、いろいろな形に細部を変えながら、しかしきのうよりきょうへ、そして明日へと根づよく断続されてゆく、そのリアリスティックな人民の幸福への闘争の精神が「乳房」の基調となっている。
「乳房」は翻訳されてソヴェト同盟から出版されている世界革命文学の選集に採録された。

        「風知草」について

 わたしがプロレタリア文学運動に参加したのは一九三一年一月のことであった。したがって、わたしは計らずも日本の人民生活のすべてとその解放運動がファシズムの波の下にひしがれはじめた時期と時を同じくして、その怒濤の下に身をさらすことになった。階級的作家として転換してから理論的にも創作能力においても未成熟のまま高波とたたかってゆかなければならなかった。一九三二年から一九四五年八月十五日までに、わたしがともかく作品を発表することのできた時間は、三年九ヵ月あまりしかなかった。一九三八年(昭和十三年)から三九年の半ばごろまで作品発表を禁じられていたわたしは、翌一九四〇年いっぱい精力的に執筆すると、次の一九四一年(昭和十六年)一月から再び作品発表を禁じられた。この禁止は、日本の侵略戦争の拡大にともなったもので、十三年の折のように、ある期間で、解かれるかもしれないという可能性の見えないものだった。戦争が終らなければ作品の発表禁止もとけないとわかったことであった。一九四五年八月十五日が来てもその年の十月に治安維持法が消滅するまでは、すべてのジャーナリズムがもとのプロレタリア作家の作品をのせることに躊躇した。これは、それまでの言論出版制圧が、どれほどひどい文化の萎縮をもたらしていたかということの証明になる。一九四六年一月にいち早く創刊・復刊された諸雑誌の創作欄が戦争協力作家でなくて、しかもプロレタリア作家でなくてポスター・バリューのある作家を求め、永井荷風へ一致して、その作品が各紙を飾ったのも、日本文化、文学史の特色をもつ一現象であった。あしかけ五年間、全く作品公表できなかったわたしは、一九四一年十二月八日真珠湾の翌日、戦争非協力の共産主義者として検挙された。一九四二年三月巣鴨の未決へ送られ、その年の七月二十日すぎ、熱射病のために危篤に陥って、帰宅した。不思議に生命をとりとめた。しかし、視神経、言語の神経、心臓と腎臓が破壊されて、視力恢復までに一ヵ年以上かかった。心臓と腎臓の機能障害は、こんにちわたしの健康上致命的な弱点としてのこされている。
 作者の立場は、自身が人民的であり戦争に非協力であるというばかりでなく、非転向で十余年の獄中生活を送っている共産党員である良人の妻であるという客観的事情から決定されて、権力との妥協点がなかった。一九四〇年(昭和十五年)十月に執筆した「朝の風」一篇は、もうこの作者が、小説としてかきたい主題は書くことのできない社会的情況にまで軍事統制が進んでいることを明瞭に示した。客観的な意味で、書きたいテーマはかけなくなっていた。出征という一つの客観的事実を扱っても、それは人間が平常の状態を失いつつある生活現実であってはいけなかったのだから。――出征は
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