勇躍万々歳[#「勇躍万々歳」に傍点]でなければならず、人民のつつましい生活の中から働く男、経済の支柱が奪われてゆくに際しての家族たちの限りない不安。夫婦、親子、兄妹の愛さえも、それは天皇と国家への捧げものと見られなければならず、そこには別離の愛惜と生命への不安と絶対的な権力への疑問抗議は、当時の日本人の心に存在してはならなかったのであった。
 作者は、五年間の強いられた沈黙をむしろ必然なものとして感じるようになった。主観的にわるあがきする余地さえ対世間的にはのこされていなかった。獄中のひとのための公判準備、その公判の傍聴、毎日数頁ずつ書き送る手紙。防空壕へ出たり入ったり。炊事。断続する読書。そういう風に五年が経過した。
 一九四五年の八月十五日が来た。その年の六月下旬に無期懲役を宣告されて網走に行っていた宮本顕治が十月十四日に風呂敷包を下げ、素頭で、草履ばきで東京のわたしがいた弟の家へ帰って来た。この八月十五日から十月、十一月、十二月とみつきの間に展開された全生活の変化は、作者の一生にとって二度とあり得ない大転換の刻々であった。生の活気とよろこび、勇躍が、女として、作家としてのあらゆる面に照りわたって、はめられている格子の敷居ぎわまでつめよって、その格子に顔を押しつけて開くのを待ちかまえていた精神と肉体とがいっせいに解きはなされた。
 そのすべてを押しながすような溢れる心でわたしは一九四六年一月――七月の間に「播州平野」を書き上げた。九月――十一月は「風知草」をかき終った。
 この二つの物語こそ、一九四五年八月十五日以後の新しく生きようとする日本のしののめのうちに響いた人間の甦りの声々であった。
 日本の男も女も何と苦しく抑えられ息さえ胸いっぱいにはつけずに生きて来たことであったろう。戦争が終りファシズムの兇暴な権力がくずれ、そして、治安維持法が消滅したという歴史的な事実。そのように入りくんだ歴史のひだごとに、一人の女、一人の妻、一人の婦人作家としての悲しみとよろこびが折りたたまれて来て、いま解放が来た、ということは、わたしに「風知草」をあのような作品として書かせずにおかなかった。その法律で多くの人の生涯をめちゃめちゃにして来た治安維持法一つが消滅したら、二十六歳の年から十二年間未決におかれ、最後にはいくつものこしらえあげた罪名を蒙らして無期懲役を宣告されていた一人の革命家の心と体から、すべての鎖と枷とがいちじに落ちてゆく光景はそのひとの無垢を信じてその歳月をともに暮した妻である、作者にとって平静に眺めるには堪えがたい壮観であった。
 共産党が合法政党として立ちあらわれ、代々木駅ちかくのうすよごれたコンクリート建物のがらんとしてまだ人気も少い入口の柱に、アカハタ編輯局という貼紙が出された。やがて、おかしな字で日本共産党と大書した板の看板がその入口の上にかかげられた。それは作者をうれしさで笑顔にし、同時に、日本の人民がはじめて公然と革命的政党を持つようになったという歴史の新しい一事実でもあった。
 一九四五年八月十五日以後、日本には、それぞれの人の心にそれぞれの形で歴史的な内容をもつ歓喜と悲哀の感動が流れわたった。そして、そのさまざまな度合いと色あいの激しい悲喜の思いこそ、その人々が気づくと気づかないとにかかわらず、「風知草」という一篇の小説の世界をつらぬいて流露された歓喜と悲哀に通じるものであった。悲しさも、歓ばしさも、そのすべてが人民として共通に生きぬかれた野蛮な歴史の暴威と崩壊。新しく心ごころに感じられはじめた生の甦りの感覚として。
「風知草」については、先ずその題のよみかたが、ふたとおりになっている。「ふうちそう」とよむよみかたと「かぜしりぐさ」と読むよみかたと。作者は「かぜしりぐさ」とよむことは知らなかった。夏の夜店の植木屋の葭簀ばりのそばで青々と細葉をしげらせたその鉢植を買ったとき、植木屋はそれを「ふうちそう」とよんだ。わたしは、ああ、そのほっそりした葉がかすかな風の渡るときにもそよぐからだろうと納得していたのだった。二三年たって、同じ草の鉢がさし入れられて、巣鴨の蒸し釜のような女舎のせまい板じきにおかれた。その三畳の室は風通しというものが全くなかった。暑気に喘ぎながら、わたしはその細い葉の一端でもそよがせる微風――といわないまでも空気の動きを求めた。しかし、その細い青いむら葉はわたしがその室の中で昏倒してしまうまでそよっとも動くことがなかった。さし入れ通知の紙に、ふうち草鉢植一とかかれていてわたしはその下に、赤いにくで爪印をおしたのだった。そういういきさつから、作者のこころもちは「ふうちそう」としてしかあの夜店の草を思い出すことができない。
 風知草の主要な人物は重吉とひろ子という夫婦である。重吉が思想犯として十二
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