父の家の雰囲気では、そのころのわたしの妻としての心痛や緊張の思いが日常生活のうちに自然な発露を見出せなくてやってゆけなかった。
 上落合へ移ってからわたしは「バルザックから何を学ぶか」その他の感想評論をかき、やっと「乳房」をまとめることができた。父の家を出て環境が整理されたこともよかった。その年の十二月二十日すぎの或る夜、夕刊に、宮本顕治が一年間の留置場生活から白紙のまま市ヶ谷刑務所へ移されたというニュースが出ていたと、一人の友人が知らせてくれた。作者はそのとき、思わずああ! と立ち上って、殺されなかった! とささやいた。一年間の留置場生活の内容は、完全に遮断されている妻には一切しらされなかった。宮本の母さえも、警視庁で命ぜられたとおり自分が息子の顕治に面会した場所や健康状態については、沈黙を守っているという有様であった。
 さかのぼって考えれば一九三一年以来、はじめて、小説にうちはまってゆけるゆとりが作者の心に生じた。また一九三二年から前後三回に通計十ヵ月ちかい警察の留置場での生活を経験しなければならなかったこともそのころプロレタリア作家としてより深い階級的実感をもたらした。
 宮本顕治があのように不自由して獄外に生活していたころ着手して、未完成のままにおかれた「乳房」を(題はまだつけられていなかったのだけれども)宮本が生きて、これから先何年もそこですごさなければならない見当さえつかない未決にまわった記念のために、ちゃんとした小説に書き上げたいと思う熱意があった。そのために一ヵ月余、継続的に仕事をした。ある部分は数度かき直された。そして「乳房」と題をつけられ、中央公論四月号にけいさいされた。
 この期間、「乳房」を集注して書き終えたのは好機であった。なぜなら、わたしは、その五月十何日であったかに前年母の死去によって中絶された調べのつづきと称して検挙され、その秋に起訴され、翌一九三六年三月下旬まで未決生活に置かれたのであったから。この一九三六年一月三十日に父が亡くなった。わたしは五日間仮出獄して、葬式に列し、再び未決へもどった。二・二六があったのもこの年のことである。
「乳房」は、ある労働者街の無産者托児所の生活を中心として、東交の職場が各車庫別のストライキに立っていたころの動揺、地区のオルグとして働いている人物の検挙につれて、その余波が托児所にまでひろがって来る前後のいきさつを題材としている。テーマは、革命的な労働者は次々ひっこぬかれてダラ幹ばかりのこされた東交の中にでも、いろいろなやりかたでその活動を年中警察に妨害され苦境にいる無産者托児所の中にでも人民が自分たちの生活と職場を守り、権力とたたかってゆこうとしている意欲は決して潰滅しきっているのでないことを描こうとしたものである。主要な人物は無産者托児所の何人かのタイプのちがう女性たちである。主人公ともいうべき人物はその托児所の主任※[#「女+保」、70−5]母として働いているひろ子である。ひろ子の良人の重吉は革命的活動家として検挙され獄中生活におかれている。この小説に描き出されている様々の情景はすべて――東交某車庫の集会、托児所生活の雰囲気、市ヶ谷刑務所面会所の風景、特高警察の乱暴そのほか、みな現実のうちから作者としての生活的実感を添えて切りとられて来ている断片である。作者は、当時の社会現実をみたしていたリアルな諸情景を、人民の階級的能動性に加えられる暴圧とそれへの抵抗という一つのつよい歴史的テーマに統一して表現しようとしている。活動の安定を失いはじめている托児所へ出入するようになった臼井という、いかがわしい経歴の若い男が大衆の前に全身をあらわすことのできない党というものへの好奇心や畏怖やを利用して、未熟で正直な若い※[#「女+保」、70−13]母タミノを、意味深長なヒントで自分にひきつけようとしている過程、それに対するひろ子の不信と警戒の描写は、当時の各組織内に挑発者が侵入してゆく方法や女をひっかけてゆく方法の、小規模ながら一典型である。いろいろな組合わせで特徴のあらわれている会話の調子も、一九二八・九年ごろからこの作品のかかれたころまでの、左翼活動家たちのものの云いかたである。警察の特高と※[#「女+保」、70−17]母たちとの応酬も短いうちにティピカルなものを示している。重吉対ひろ子、臼井とタミノの対照で、階級的な愛情の問題にもふれられている。正面から階級闘争をとりあげているという意味で、この「乳房」は、正統的なプロレタリア文学の作品として、公表されることのできた最後の作品であったということができる。プロレタリア文化、文学団体は前年に解散してしまっていて、文学の面ではもうそのころ没階級的なリアリズム論が氾濫していた。武田麟太郎の市井的のリアリズムと、島木健作の凄みズ
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