きがする。
スイミツ桃のうす青な水たっぷりの実は、やわらかくてしない赤坊のように思われるが、天津桃の赤黒いデブデブした紫のつゆのたれそうなのは、二十五六のせっぴくのゲラゲラ笑うフトッチョのはのきたない女に似て居る。
○この頃の本の沢山出来る事と云ったらほんとうにマア何と云う事なんだろう。古い雑誌に出版物の統計が出て居たけれども、日本がいちばんたくさんである。そのくせ、そんなにありながら英訳し伊訳して立派な恥かしくないと思われるのは民間の金貨のようだと思われる。
第二日
鶏は女房孝行な内にもどっかつんとしたところがあるけれど、鴨はどこまでもいくじなしで鼻ったらしに見える。
鶏はいつも牝鳥をかばってやって、人がいたずらをするとみの毛をさかだてておっかけるが鴨は置いてきぼりにして夢中になって自分からにげ出してしまう。
梨の果はその育ち工合はなかなか貴とげなきっと人にたっとばれる実になりそうに思われる。ようやく白いあまい形をした花が散って子房がふとり出すと、もう一寸でもさわるとすぐ思いきりよくポロリと落ちてしまう。小さい、見えるか見えないかの小虫がついてもすぐ落ちてしまう。朝と夕方の清らかな露のうるおいとふるいにかけた様な空気とで育って行く様子はピリリッとした権しきのあるかしこい頭をもった女のようだとつくづく思われる。
東京に沢山ある町のその一条毎にその特有のにおいが有る。それも気をつけてかぐ様にしてあるくのが私はすきでわり合に沢山の町の香いを知って居る。
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小石川の宮下町の近所は古い錦の布の虫ばんだ様な香がする。
銀座の竹葉のわきの通りは、だいだいのような香がする。そして混血児を見るような感じがする。
根津の神社のわきの坂は、青っくさいようなモルヒネのような香がする。
巣鴨ステーションの近所はもちのこげたような香がする。そいであすこいらの小家がみんなかびたもちで目に見えない大きなさいばしがそれをあみの上にのせてあっちにやったりこっちにやったりして居るように思われる。
根津のところから西片町にぬける奥井さんの細い通り露路はおばあさんのあたまのあぶらの様な香がする。
林町の裏町の家の間のせまいつきあたりの様な町があるとこは、おせんこくさい様な香がする。それは、そこは小家が沢山ならんで居て大抵そこにおばあさんが多くすんで居る。それを知って居るんでおせんこくさい香がするように感じるのかも知れない。
もとよりこんなことは人それぞれの感じでちがって居るから、あたって居るかどうだかわからないけれども。
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人が町によって色があると云うけれども私にははっきりこれがわからないけれども。
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浅草が豚の油でといた紅のような気のするのと、
染井の墓地に行くまでの通りの、孔雀石をといてぬった青のような気がするのと、
京橋のわきの岸が刺青のような色をして居るようなことだけは感じて居る。
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フランネルで作った犬の腰のぬけて、めだまのぬけたのは妙に可愛いもんで、首人形の髪の手がらの紅の少しあせたのと、奇麗なかおの少し黄がかったようなのはなつかしい古い錦をなでて居るような心持になる。
新らしい本のかどかどをなでまわすのと、新らしい雑誌の紙をきるのとはたまらなく、新らしい着物のしつけをとるよりうれしい。
この頃子供達、内ばかりの……の間に、「得意にやっちょる」と云うことばが流行《はや》って居る。
兄弟が何かずにのってやって居るとはたで、
「得意にやっちょる!」
とはやしたてると、云われた子はまっかなかおしてやめる。
世の中にも、
「得意にやっちょーるー」
とはやされそうな人は沢山居るにちがいない。
第三日
ダンテの像に黄色いきれで頬かぶりをさせたのと、百姓おやじに同じことをしたのと同じ位似合うのには一寸びっくりした。
可愛がらなければならないはずのものが可愛くなくって、可愛がらなくってもいいものが可愛くてたまらないと云うことは、だれにでもある人情だと見える。
黒毛の猫とあんまりやせた犬とはねらわれて居るようで、かべのくずれたのはいもりを、毛深い人は雲助を思い、まのぬけて大きい人を見ると東山の馬鹿むこを、そぐわないけばけばしいなりの人を見ると浅草の活動のかんばんを思い出す。
用いふるした金ペンと小さい鉛筆をためるのと、髪の毛の数を想像し、草の生えて居るところを四角に切って元禄にとって行くのは馬鹿げたことでたのしみなことである。
ひまっつぶしにはくもとにらめっこをするのがいい、いつまでたってもあきることがない。人形になる、天狗になる、蛇になる、天馬になる、スヒンクスになる、宮殿になる、様々に変ってやがて馬鹿にしたようにプッととんでってしまうから。
第四日
人間が無念無想になる時は、一日の中に可成沢山有る。私の一日中に無念無想になる時には、
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朝起きてかおを洗う時……手拭に水をためて顔にあてた切那、
あくびをする時、あついお湯にしずむ時、だるくってそ□□□[#「□□□」に「(三字不明)」の注記]けんになった時、ハッと思った時、
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こんな時になる。
又、一番下らない事をしみじみ考えるときは、
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ひざを抱いて柱によっかかった時、
団扇の模様を見て居る時、
人のものをたべるのをはたで見て居る時、
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障子の棧を算えて居ると妙に気が落つく、又蠅の糸の様な足を二本合せておがんだり、三本合わせておがんだりして居るのを見るといやに面白い中にせわしないイライラな気持になる。
人のかおが可愛いなんかって云うのは、赤坊のかおを標準にして居ると或る人が云ったけれ共、なんだか若し大人が赤坊のかお通りならずいぶんまのぬけたものだろうと思われる。
のんきは――一寸のんきさがますと馬鹿に近くなってしまう。
人にはどんな人にでも多少惨こくな心持が有るにちがいない。たとえばここに下らない人の書いた地獄の絵と、名人のかいた山水とならんであるとすると、山水は一寸いいかげん見て置いて地獄の針の山に追い上げられる亡者や、火の池をおよぎそこねるものなんぞを「ずいぶんいやな絵ですネー」と云いながら前よりも長い間そこに立ちどまって見る。
私が何かものずきに雅号をつける。
それが雑誌かなんかで同じ名が見えると、自分の領分に足をふんごまれたような馬鹿にされたような気持になるので、そのたんびにとりかえる。くせの一つかもしれない。
第五日
小供なんかって云うものは妙なもので、頭が単純なせいか、一つはなしを幾度きいてもあきないで笑ったりなんかしてよろこんで居る。
かおがそんなに奇麗でなくっても、声のきれいなのはそれよりもまして可愛い心持のするもので、みにくいかおの女がなめらかな京言葉をつかって居るのは、ずいぶんと似合わしくないもので、きれいなかおの人が椋鳥式のズーズーでやって居られるとなさけない、いきなりポカリと喰わされた様な気がするもんだ。
京[#「京」に「西」の注記]の女は砂糖づけかあめのようで、東の女達はさんしょの様なすっきりとしたピンとしたところが有る、とは昔からきまった相場であるけれ共、この頃は江戸っ子と椋鳥とごっちゃになって九州のはての人と北海道の人とごっちゃになってしまったので東京にすんで居る人でも、随分ごっちまぜになって居る。毎日乗る電車の内にも見てほんとうの江戸っ子を見ることは一寸ない。往復の電車に一人も見えない時などには随分と心細く、キリリシャンとした角帯がなつかしい気になるが、京橋辺で思いがけない江戸っ子の女になんかあうとめっぽう心太くなってしまう。
私はもう十五にもなって居て……昔なら御手玉もって御嫁に行った年だのに、まだ大人の着物を引きずって着るのと戸棚の中に入って下を見下して居るのとが妙にすきで、鉛筆の先のまあるいのが大きらいでいそがしい時鉛筆がふとくなると涙がこぼれそうになる。イライラするとじきに涙が出そうになるかわりに、ふだんはそんなになき虫じゃあない。
「女は泣かなくちゃならないもので、男は働かなくちゃあならないものだ」と何かに云って有ったけれ共、この頃は女もないて許りいちゃあたまらないようになって来た。「涙もろい……一寸したことになく女と、中々なかないいじっぱりの女とどっちが御すき?」と男の人にきくとやっぱりけんかしてもいじっぱりの人の方がいい、と云う。
思いきり自惚《うぬぼ》れて居て、ひょっとあてのはずれた時の人ほどみじめなものはないと思う。自慢なんかする人は天からのんきでなくっちゃあ出来まいと思われる。なぜってば自慢って云うものは「御自分さまって云う御方は御えらい御方だ、御姿はよし御声ならよし、学問なら、遊芸なら何でもござれで……さてさてマア」と自分で足駄はいて首ったけになって居るのが即ち自惚れである。そんな人がひょっと人から自分のわるい評判をきいたり、笑われたのをきいたりしようものなら、にが虫を百疋かみつぶしながら蜂にさされて泥をぶつけられたようなかおして悲観してしまう。自惚のつよい人ほど悲かんの程度が強い人だろうと私は思う。
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斯う云うものの自ぼれて居られる人はたしかに幸福な人だと思う。何故ならば多少の自信をもって居ても自ぼれなければいつでもイライラする気持になるから。
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ひろい海の前に立って自分も大きな人間になった様な気のする人と、
いかにも自分の小さいものに思われる人とある。
始めのように思う人は多少自信のある人のなる心持で、あとの方はまだ自分の心のはっきりわからない、不安心な人がなる心持である。
私は後者に属して居る。
人間の作った字と云うものを長く見て居ると、こんなまがりくねった線を集めたんで、どうして意味が有るのかと妙に思われると一緒に作った人間と云うものが不思議に思われる様になってしまう。
体の妙に細い角々しい曲線の手先もうでも太さの同じな、かおのほね立った動く時に埃及《エジプト》模様の中の人間のようになる人がある。
埃及模様なセセッション全盛のこの頃、そんな人も全盛かと思うとそうでもないから妙なものだ。
妙なもんで兵児帯のはばをうんとひろくまきつけて居る人は田舎もんの相場師か金貨の様に見えてしかたがない、とはどう云うわけだか自分にも分らない。
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同じ形をした同じ枝の葉でも□[#「□」に「(一字不明)」の注記]でも、その一角でも赤か黄にそまって居ると人は目につける。それが死ぬ間ぎわの色でも……人間も木の葉とそんなに変らなく一寸色が変って居ると目立つものだ。
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田舎に育った娘は、しずかなチラット白眼をつかってかんだぐるようなことが多く、都に育った娘は、人なつこい中にかならず幾分かのかざった、いつわったところが多いと思われる。
仕事をしなくてはいけない、仕事をしない人間は生き甲斐のない人間だと云うこの言葉だけは知って居るけれ共、何故仕事をしなければならないか? と云う問題になるとはっきり分らないものだ。
この頃は天才がふえた。ことに雑誌なんかの上で大人が一二度小才のきいた文章が出してあるとすぐ「前途多望の天才」とかなんとか云う尊称がたてまつられる。そんな人にかぎってその投書の一年とつづいた事がなく、その次からの文がきっと前よりも劣って居る。「天才のねうちが下ったナア」と思われる。
何故昔は男でも色のはでな模様のある着物を一般の人が着て居たのに、この頃は男の着物と云えば黒っぽいもののようにきまってしまったんだろうか? どんな深いわけが有るんだろうかと思われる。
私は何だかもうずっとたったら男のと女のすれ違う時が来るんじゃないかと思われる。何と云うわけなしにただ…
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