かまわずにただ一寸はじいてもいい音がする。そのつながりのない一つ一つの音にも何となく思いをはらんで居る様なので撥のはじで一本一本丁寧にいろんな音を出してはじいて見る。
 その音の中から何か湧き出して来そうな気がする。撥をすてて爪弾をして居ると、何となくその音がこないだ見た紙治の科白の様にきこえる。どうしてあの時はあんな風に酔わされたのかしら、涙が出て――涙が出て恥かしいほどだったが、涙のこぼれる方がまだ好いんだ。三味線をほっぽり出して壁によっかかってあの時のうれしかった事を思い出す。あのなよなよとした肩っつき、頬かむりの下からのぞいた鬚の濃さ、物思わしげな声――それだけ思っても頬が熱くなって来る。
 あの通りの着物を作ってしっとりと着て見たらさぞうれしいだろうが――あの時はまるで自分が紙治になって居た、傍で見て居たら、キット一緒に首を動かしたりうなだれたりして居たんだろう。も一遍あんな気持になって見たいナ、若い娘がいい人の事を思い出した時みたいにトキントキンとどうきが高くなって眼がかすむ様になって居る。「いいなあ」我知らずこんな事を口走ってしまった。下でおっかさんが「お昼だよ」って云っ
前へ 次へ
全85ページ中66ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング