んで居た。男はそのわきに少し目の落ちた彼の女の青白い横がおを見つめて立って居た。男はどもる様にこんな事を云った。
「どうしてそんなひやっこい様子をして居るの、何か腹の立つ事があるの」
「腹の立つ事なんか一つもありゃしない、うれしくってうれしくってしようがないんだから……」
彼の女は斯う云って又歌のつづきを云って居た。
「何がそんなにうれしいんだか話して御らんなさい」
「聞いてどうするの?……私には、貴方よりももっとすきな、そしてもっと好い恋人があるから……」
彼の女は平気で髪一本ゆるがせないで云った。目は小石を見て居た。それでも男の顔の色が一寸変ったのを彼の女は知って居た。化石した様にだまって突立って居た男は、押し出される様に「じょうだんは云いっこなし……」男はどうぞこれより私を驚かせる事は云わないでネと云う様な目をして彼の女を見つめながら云った。
「ほんと、……何故そんなにびっくりするの?」
「ほんと? ほんと? 一体……どんな人なんだろう」
「どんな人でもない……自然……エエ、自然、マア、どんなに私を可愛がって呉れるんだか……」
彼の女はかるくほほ笑んだまんま云った。男のかおには少し安心したらしい色が見えた。それでもまだかたくなっておどろいた様子をして、彼の女の萩のナヨナヨとした若芽で結んで居る髪を見つめた。
「私の居ない間に自然が貴方をとっちゃった……」
男はこんな事を云った。彼の女の口元はキュッとしまった。そして、
「私はあんたのもんじゃあ始っからありません」
裁判官の様に重くひやっこく女の声は云った。
「御免なさい」
男は小さなふるえた声で云って原稿を机の上から取って読んで居た。女はさっきの事をもう忘れた様に歌を云って居る。
沢山の歌の中に、男は彼の女の気持を見つけ出した。そして木々の葉ずれ、虫の声、そんなものに霊をうばわれて小さいため息を吐き、歌をよみ、涙をこぼして居る彼の女をソーッと見て、もうこの人のきっと死ぬまで自然を恋して居る人に違いない……と思った。
それから二人は、歌をよみ合ったり、限りなく広い世の中を話し合ったり、会った時にはきっと真面目な考え深い時を送った。夜二時三時まで頬を赤くして亢奮した目つきで話し合ってその時男の云った事が合点が行かなくって一週間もつづけざまに一つ事を話し合った事もあった。彼の女の自然を愛する心は日毎に
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