深くなって行った。男からはますます解らない謎のかたまりになって来た。けれ共云う事はお互によく分り合って居た。
「貴方は段々私に考えさせる様になって来る」
 男はあけくれ机に向い自然とぴったりあって嬉しさにおどって居るまだ若い彼の女を見て居た。彼の女の心のオパアルはより以上に複雑にこまっかくするどい光をはなして居る。

     或る人の一日

 何とはなし、どうしてもぬけないけだるさに植物園にスケッチに行くはずのをフイにして、食事がすむとすぐ相変らずのちらかった二階に上って、天井向いてゴロンとひっくる返った。ぞんざいな造りの天井をしさいに見て居ると、随分といろんなものがくっついて居る。それを検微鏡で見たらさぞ面白かろう、まのぬけた顔をしてこんな事を思った。まだ買って来て半年もたたない浅草提灯のひだのかん定を始めたが、どうしても中途まで来ると数が狂ってしまう。幾度くり返してもくり返しても同じなんで「人馬鹿にしてる」こんな事を浅草提灯に云ってムックリと起上った。机の前に座ったがどうも気が落つかない。こないだ注文してやった筆立の形も思う通りに出来るかと思って不安心だし、下絵の出来て居る絵の色の工夫も気にかかる。「第一うちに女竹がないからいけないんだ。黒猫ばっかりもらったって何にもなりゃしない」一人ごとを云って壁紙に女竹と黒猫を書いた下絵を見つめる。どうしてもあの三本目の竹の曲り工合が気に入らない。思いきって破いちまおうかと思わないでもないが、一週間つぶしたと思うと流石《さすが》未練がのこる。「マアいいさ、なる様にはなるにきまってる」いくじのない理屈をつけてヒョッと目にふれた三重吉の『女と赤い鳥』をとる、夢二の絵の中によく若い娘が壺を抱いて居るのがあったが、あれはこのパンドールの壺なんだキット、こう思って長い間のなぞもとけた様な気がした。「赤い鳥」をよんで居るうちにフッと自分がまだ十七八の時の事が思われた。
「彼の時分は若かった」斯う思うとほんとうに心がゾーッと寒くなる様な気がする。こないだあの人が来た時にそう云って居たのがやっぱりあたってる、と思われる。小さい時からきりょうよしだと云われて居た自分の目の大きい顔の白い、髪のまっくろでしなやかで形よく巻けて居た様子が、博多の帯をころがした時よりも早く悲しげな音をたてて頭の中にくりのべられた。朝起きぬけから日の落ちるまで絵具箱
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