下さいませ』ってやったところが、先生の奥さんが出て来て『いらっしゃいまし、どなたさまで』っておじぎをなすったんで傘をもったまんまポッカリ頭を下げると、先生が出て来られて『マア上り給え』と云って半分笑われ半分叱られて来ましたっけが……面白いもんですネー、又して見ようと思ってます」
 美術学校の人のよくする事だと思って私は笑いながらきいて居た。心の中でそうっと私も男にいつかばけて見ようと思って居た。ヒョイと見ると歌まろの絵のわきに細筆で書いたらしい様子に「あの女」と書いてある。私はそれをジーッと見つめて居ると「貴方、あの女ってのを見つけたんでしょう」ってその人が云う。「エー」私はそっちを向いたまんま返事をする。
「先にここに同じ級の書生が二人居た時に一人の男がフッとすれ違ったそんなにいい女でもないのがどうしても忘られないってしょっ中教えてたんでも一人が何だかここに歌みたいなひやかしを書いたのがまだ残って居たんです」こんな事を云って呉れた。ポツンと話のとぎれた私達はあの女と云う字をジーッと見つめて居たが、いつだったか長唄をならってるってきいたんでそれを思い出して、
「貴方三味線きかせて下さいナ、下に居るあのまっくろな猫もつれて来て……」と云った。
「いつきいたんです……エエひいてもようござんす。手がも少し白いといいんですが……」
 こんな事を云ってまっくろい猫と三味線を抱えて来た。まるで女の様な手の曲線を作って本調子で何だかこう、あまったれた様なやんわりした気持になるものを爪弾して居るそのうしろには豊国の絵の女がほほ笑んで、まっくろに光る毛なみとまっさおな目をもった猫は放った絵絹の上にねて居る――何となしに私の心持にピッタリあったものがある様でその器用にうごく手を見ながらほほ笑んだ。
 その人は小声になんかうたって居る。かえって文句のわからない方が私にはうれしい。まるで傍に人の居るのを忘れた様に自分の爪の先からかき出す音の行末を追う様に耳をかたむけて居る。私はそのしのび泣いて居る女の様な何とも云われないやさしみとつややかさをふくんでないて居る爪弾の音にいつも私がなる様に目の内があつくなって来た。私はかるく目をつぶりながら「あの黒い髪をちょんまげに結わせて――よろけじまのお召の着物を着せてその青白い細面てのかおにうつりいい手をして居たら……」こんな事を思った。
 斯うしたお
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