という光彩のない挨拶だろう。暗い、激しい視線が、とかくちらちらと後を向いた良人の頭や肩に注がれるのを、ゆき子は強いて紛らした。
「今朝は間にお合いになったんでしょう?」
「ああ有難う、間に合った。……併し、何しろくたびれた」
 靴を脱ぎ終ると、彼は外套をとりとり、大股に玄関の間を通り過た。
「久し振りに乗ると、全く電車はひどいね。参ってしまった。××から立ち通しさ」
「――まあ、そんな?」真木の無感興な原因が推察され、ゆき子は幾分心の和らぐのを感じた。
「余程前から帰っていたの?」
「いいえつい先刻《さっき》。――×町の方へいらっしゃるかと思ったんだけれど……。帰って来てよかったわ。――急にお帰りで皆さんがお驚になったでしょう?」
「ああ、何にしろ思いがけなかったからね、併し」
 真木は、窮屈そうに白襯衣《ホワイトシャツ》を脱いだ。
「行って見れば、それほど大したことでもなかったんだね」
「何が?」
「××の用事さ」
「まあ! じゃあ、お帰りにならずとよかったの?」
 ゆき子は、思わず良人を見た。
「そんなことはないさ。いつまでいたって同じ所だもの。却って思い切りよく立ててよかった。それに今度は、山岸の伯母さんが死んだんで、温泉どころではなかったしね」
 着物を着換え、髪にブラッシをかけ、先ずゆっくりと、胡坐《あぐら》をかいた彼と向い合うと、流石にゆき子は、心の安まるのを感じた。茶を入れ、×県名物の菓子を摘みながら、真木は、いろいろ、旅の亢奮の抜け切らない口調で、あちらの様子を話した。
「皆が、奥さんは何故来なさらんかって訊くんで、一々説明に困ってしまった。まさか、来たくないそうです、とも云えないしね」彼は笑った。そして、久し振りの座敷を懐しむように、あちこちと目を遣った。
「ところで――×町は、どうだったね。うまく行きましたか?」
 ゆき子は、良人の眼の下で、曖昧に、
「それほどでもなかったわ」
と云って苦笑した。
 これが若し、先刻までの心持だったら、彼女はきっと一言の下に頭を振って、
「駄目よ!」
と否定しつくしたであろう。そして、
「ほんとに、うち[#「うち」に傍点]はうち[#「うち」に傍点]だわね」
と、感歎したに違いないのである。が、今、彼女は、世辞にもそういう自由な表現は出来なかった。持っていた感情の強さや激しさは皆心の奥深く沈み込んで、良人が受け得る程度の上澄みが、僅に注ぎ出されるのである。
「それはいけなかったね」
 真木は、ゆき子を見、言葉を続けて、何か云いそうにした。が、それを控えて、
「手紙や何かは、皆持って来てくれたでしょうね。じゃあ、これは後のことにしてと、どれ」
 彼は立ち上った。
「荷物の始末でもしてしまおう。どうせいつまでも放っておくわけには行かないから」
 もう一休みは済んだと云う風に、真木は早速、鞄や箱を、縁側に持ち出した。
「はいこれも。――その襟巻はもういらないんだから、樟脳でも入れて仕舞ってしまう方がいいね。あっちでも使わなかったよ」
 後から後から出るものをそれぞれ平常の在場所に戻したり、洗濯物を分けたり、ゆき子は暫く遽しい時を過した。
 こういう時、持前の忠実《まめ》や細心を現して、先から先へと事を運んで行くのは、いつも真木の癖なのである。
 そうとは知りながら、ゆき子は如何にも詰らない気持がした。五日も会わずにいたのに、何の纏まった話もなく、一息つくと、せかせかとあっちこっちへ動き始める。――まるで、二人のためにどうするではなく、「家」のために、月並な良人と妻との役割を満そうとしているような物足りなさが感じられるのである。
 彼に手伝い、相当な受け答えはしながら、ゆき子は、心だけが傍へ出て、淋しく凝っと自分等を見守っているような心持がした。
 差し向いの夕飯後、彼等は散歩がてら、小さい土産物を持って、×町へ行った。そして、十一時頃、低く寝鎮った街なかを、睦しそうに肩を並べて帰って来た。

 併し。――
 翌日、遅めな朝飯が済むと、日向で新聞を見ている真木に、ゆき子は、
「今日はおいそがしいの?」
と訊ねた。
「僕? そんなにいそがしいことはない――何故?」
「じゃあ緩《ゆっ》くり話していらっしゃれて?」
「さあ……」真木は、がさがさと大きな新聞を畳みなおした。
「緩くり話すって――もうそんなに休もないからね、今日は一つ×県へ礼を出したり、あっちこっちの返事や何かを書かなくちゃあ……」
「――家にはいらっしゃって?」
「いますとも! 用がなかったらこっちに来ていればいい」
 真木は、やがて、明るく日の差し込む机の前に坐を構えて、徐ろに紙や封筒を揃え始めた。それを見て、ゆき子も立ち上った。そして裏合わせになっている自分の部屋に入って、静かに境の襖を閉めた。そこは、北向の三畳間であった。表座敷のように陽気な庭や、晴々した遠くの眺望は欠けている。けれども、広い硝子窓越しに、低い常盤木の植込みを透して何時も変らぬ穏やかな光線が、空から直に流れ入っているのである。
 窓際に立ち、結婚の時友達から贈られた象牙柄の手鏡を取って、暫く自分の顔を眺めた後、ゆき子は、新刊の雑誌を読み始めた。
 その号には、彼女が、常々敬意を抱いている或る女流作家の創作が載せられていた。それを読もうとして、わざわざ、昨夜、書店から買って来たのであった。
 けれども、読みかけているうちに、彼女の注意はとかく散漫になった、書かれていることが詰らないのではない。周囲が喧しいのではない。併し、自分の中が、余りに騒々しいのだ。昨日《きのう》からの妙に拗《こ》じれた気分は、今朝になっても消えなかった。彼女は、一夜持ち越しただけ、あらゆる意味で、より悪性になった苦々しさ漠然とした憤懣を、やっと不自然な沈黙のうちに湛えていたのである。
 昨日は、激しい感情の反動に乗って、一途に良人が攻められた。けれども、今となると、そう一向には行かなかった。彼が、先ず第一に無愛想であったことも、成心があってなされたことでないのは解っている。若し、また後からせかせかしたことを非難するなら、詰り彼の、マター・オブ・ファクトな性格を持ち出さなければならないだろう。
 彼が、満足し、安定を感じているとしても、普通の意味からいえば、充分そうあるべき生活の条件が揃っている。――ただ、自分の満たされない心が苦しいのだ。それが、墨を吐く。若し、真木の偶然の素振りが、それほど自分の胸を痛めたのなら、もっと自分は寛大にならなければいけないのではないか? 若し、性格によるものなら――誰が彼を愛し、選んだのだ。ゆき子は、無益な衝突は避けたく思った。が、それには、こんなに黙りひっそりとした状態が長く続くことは危なかった。
 ほんとに心が愉しく愛に満ちている時は、どんなに自分が活々とし、快活であるかを知っているゆき子は、このような状態の底に何が潜んでいるか、はっきり知り、恐れたのである。けれども、それが捌《さば》ける適当な機会は与えられもせず、見付かりもしなかった。長い間懸りながら、彼女はほんの僅かしか読み進めず、当もない考のうちに戸惑っていたのである。
 順繰りに遅れた昼餐が終ったのは、殆ど三時近かった。
 真木は、彼女の何か様子が異っているのに心付いて、頻りに種々質問した。
「どうしたの一体。――こっちに来たらいいじゃあないか、何にもしていないのなら。チーアアップ、チーアアップ!」
 ゆき子は、それでもと、自分の部屋に引籠るほど依怙地《いこじ》になれなかった。
 彼女は、良人の机の傍に坐った。そして、まだ箒目の新しい庭を眺め、遠くには手摺りに日を吸って小布団などの乾された二階家を木間隠れに望みながら、また、雑誌の続きを読み始めた。
 それは、昨今の著しい社会的現象である住宅難を背景として、それに人間が、善い心はよいなりに、悪い心は邪悪ななりに、どんな交渉を持つかということ。一つの家が、精神と肉体との棲家として考えられた場合、または、悪辣な利慾の的とされた場合、決して単純に、木と石と泥とで組立てられた「家」だけの影響には終らないという意味等を、教養のある落付いた筆致で描かれたものなのである。
 前よりは増した感興で読み続けて行くうちに、ゆき子は種々な感に打れた。或る処では、物の観かたの非常な類似に、或る場所では、描写の美しさに。また、或る箇所では、今の自分の気分で見ると、余り順序よく、一種の型の「正しさ」に落付き納ったと感じずにはいられない点などで。不意不意と、彼女はその感想を洩したくなった。言葉にすれば、僅か十言か二十言がせいぜいであったろう。けれども、ゆき子が、ひょいと気に乗って、
「ね、貴方」
とか、
「まあ! 一寸」
とか云って首を擡げると、そこには何時も、彼方を向いて何かに熱中している良人の横顔ばかりがある。
 長い間持ち越した集注ばかりでなく、彼女が、何とか一言云い懸けると同時に、さっと、邪魔されたくないと無言で示す、より緊張した表情が漲るのである。――
 次第に、ゆき子の心持は、来なかったより悪いような有様になって来た。事は違っても、昨日と同じような種類の刺戟で、彼女の胸には、今までの蟠《わだかま》りが一時に甦って来たのである。この意識が起りかけた時、ゆき子は丁度、その小説の、最後の一齣にかかっていた。そして、主人公が妻に「お前は、あの男が薄馬鹿なのか猜いのかよく分らないと云っていたから教えてあげよう。彼奴は、しんから狡猾な男らしいよ」という短い文句を、家主に関して書き送った所を読むと、ゆき子の胸には、突然、何とも云えない羨しさが湧上って来た。上手とか下手とか、批評する余地などはない。その夫婦の間に、見えず、聞えず保たれている精神的な諧調、一つが何かを感じれば、また他の一つも、同じ興味、一つになった自然さでそれに相呼応して行く自由な朗らかさを、ゆき子はさながら餓えた犬のように羨しく眺めたのである。
「勿論、御飯を今にする、否、後にするという位のことなら云うことはない。また、理論的に、あれはこうあるべき[#「あるべき」に傍点]ことだ。あり得べからざる[#「得べからざる」に傍点]ことだ。という風に押しつめて行っても一致はするだろう。けれどもこのように、気持そのもので楽に何処までも交響して行くようなことが、果して我々にあるだろうか?」現在、自分はその点でつきない不満を感じているのではないだろうか。――
 やや暫の沈黙の後、ゆき子は、はっきりとした声で、
「貴方」
と真木を喚《よ》びかけた。彼女の調子のうちには、どうでもよい場合の、当然な暢やかさがなかった。真木は振返った。
「何?……」
「話しましょうよ」
 真直に彼を見ている彼女の眼を眺め、真木は、「何だ」と云うように、また紙に向った。
「話したらいいだろう。いくらでも、こうやっていて聞えるから」
「それじゃあ話した気なんかしないじゃあありませんの」
 ゆき子は、始めはとろとろと堤に滲み出した河水が、だんだんと不可抗の力で量と速力を増して来るような気持になった。
「――何の用なの?」
「用じゃあないけど……昨日から私達は碌にほんとの話をしないじゃあないの?」
「そう改ってしようたって出来るもんじゃあない。機勢《はずみ》が来なければ――。併し」
 真木は、真正面にゆき子を見、戯談でない声で云った。
「用がないなら静にしていてくれない? 僕は、休中に遣ってしまいたいものが沢山あるんだから、ね。平常は、忙しくて暇のないのは、貴女も知っているだろう……」
 全く、真木が、専門に関して書類を纏めているのは事実であった。勿論ゆき子は、それを知っていた。けれども、今の場合、彼女には、その「専門」の権威で圧せられるのは辛棒が出来なかった。彼女の衷心には、殆ど意識の陰で、自分の仕事を顧みさせられる不快がある。ゆき子は、ぐっと心が意地悪くなるのを感じた。
「用がなけりゃあ話もされなくてはおしまいね!」
 彼女は、毒針と知りつつそれを虫に刺し込むような残酷さでちらりと良人の方を見た。
「……どうしたのだ。そんな調子でも
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