のを云うものではない」
「だってそうじゃあないの。分り切った用事のことほか、話す気もないようじゃあ、おしまいじゃあないの?」
 仕事に戻ろう戻ろうとして、隙を見てはペンを取り上げていた真木は、この言葉を聞くと、からりと机の上に万年筆を投げ出した。ゆき子は、思わず、はっとした。恐しさに堪えないような気持がした。と同時に、必死な、何とでも闘おうとする猛々しさがこみあげて来るのを感じた。彼女は、到頭、避けよう、避けようとしていた衝突に、我から胸を突当ててしまったのである。
 真木は、正面に、ゆき子と向い合った。そして、
「ゆき子」彼は強いて穏な言勢を執った。「何が不満なの? 議論することがあるなら、ちゃんと、順序を立ててしよう。矢鱈に亢奮したって分らないからね」
「――貴方は、私が何か云い出すと、直ぐ、先ず、亢奮するな、とおっしゃるのね。第一、そう定めてかかっては戴きたくないわ」ゆき子は哀れなほど激しい眼で良人を見た。
「私はね、貴方が、私の不満を御自分で感じて下さらないことが、不満なのよ」
「僕には、何にも不満はない」
「そう! あるべき筈ではない、と定めていらっしゃるのね」
「そうじゃあないか? お互に健康で、段々生活が確立して、仕事が纏まって来れば、これほど感謝すべきことはない」
「どういうのを、生活の確立したものだとお思いになるの?」
「それは」
 ゆき子は、焦立たしげに遮った。
「私はね、生活の確立したものを、世間並に、小金でも蓄めて、いい旦那さん奥さんになったのを云いはしませんのよ。また、そういう確立を得るために、話す間も専門をする間も無いような生活をしたくはありません。――勿論、そんなのがいいって云わないとおっしゃるには極っているわ。――だけれど……」
 真木は、幾度も、
「どうしたの? ゆき子」、「どうしたのだ」と云って、話を軌道に戻そうとした。けれども、ゆき子は、がむしゃらに頭からぐんぐん、ぐんぐん激情の誘うがままの所まで突進んでしまった。
「貴方は、ほんとに深く、完全に私を愛してやっていると自信していらっしゃるでしょう? だから……だから……私の感じる不満や、苦しみは、皆、私ひとりの我儘だの子供らしさだのに片づけておしまいになる。――どうしたらいいの? 段々、段々心が殺されて――どうなるの? 誰に云ったらいいの? 貴方にほか持って行きようがないのに……」
 ゆき子は、丸く握りしめた両手で口を抑えながら、声を挙げて泣き出した。――

 彼等の間に、こういう衝突、或は激浪の起ったのは、決して始めてではなかった。
 原因は、事としては極めて些細なことが多かった。けれども、終は、いつもゆき子の気も狂うような慟哭になる。彼女は、勿論自分が激越し、正当な言葉や思考力を混乱させるのは知っていた。けれども、真木が、何と云っても、どう云っても感じない或る一点、そして、彼女はそこを明にしたいばかりに云っている、或る一点に揉み合うと、彼女は泣くほか感情の遣り場がなくなった。これが、自分の唯一人愛している者なのか、という、歯痒《はが》ゆさ、焦立たしさにゆき子は全く自制を失ってしまうのである。
 彼等の結婚が、彼等自らの意志で行われたものだけに、斯様な場合の苦しさは、云い難い。ゆき子は、屡々全くの絶望に近づいた。今日も、×町で母と自分との間に交された会話の記憶が、一層彼女を狂暴にさせたのである。単純に絶望させられ、やがて絶交されるものなら、雑作なく解決はつくだろう。併し、ゆき子に真木を見棄てることは、恐らく、自分の眼を抉ることとともに不可能であった。どれほど望を失ったように見え、しんから自分の孤独を感じても、尚、深い切れない絆が彼と自分との間に結ばれていることは明かなのである。
 暫くの間泣きしきったゆき子は、やがて彼女の泣きようの余り激しさに愕き不安になり同時に真剣になった良人の言葉や愛撫に、段々心を鎮められた。泣き尽してぼんやりとした頭を良人の腕に凭せかけ、うっとりと熱心な言葉に耳を傾けているうちに、何時かまた甦った愛の誓が、彼女の胸を安める。
 最初自分の云おうとしたこと、彼に要求して、どうにかして貰おうと思った点などは、元のまま、変更もされずに遺されてしまったことは分っていた。が、とにかく、蟠っていた熱情を激しい爆発で燃え上らせ、やがて優しく鎮められることは、殆ど神経的に快い救済であった。
 ゆき子は顔を洗い、痛々しく張れ上った瞼の上に薄すりと白粉をつけ、柱に靠《もた》れて外を眺めていた。
 もう夕暮に近かった。四辺はほんのりと靄に包まれ、未だ暮れ切らない遠くの木の間に、チラチラと光輝のない街燈が瞬き出したのが見える。時々電車がベルを鳴し、疾風のようにどよめきの中を突駛《つっぱし》った。戸外がざわめき、遽しいために、家中は特にひっそり夕闇深く感ぜられる一刻である。
 彼女の眠たげな心の前には、不図、つい一月ほど前の或る夕の光景が浮み上って来た。ゆき子は、ぼんやり、
「……暖くなったこと」
と思ったのだ。それにつれて、こうしていると手足の先がしんまで冷たくなった先月の或る日が思い出されて来たのである。
 何でも多分土曜日であった。
 午後から睦しく一緒に何か読んだり書いたりしていた彼等は、ゆき子が何心なく指摘した真木の誤字のことから、段々|逸《そ》れて、矢張り今日のような結末に陥った。その時は、疑もなく、真木が彼女の真意を曲解したという点があったので、ゆき子は和解後も、心の確執を消しかねていた。
 丁度、×町に行く約束があったので、連立っては出かけはしても、彼等は何処となくよそよそしい所があるように、各自、離れ離れな会話の中心に入っていた。
 ところが、もう帰ろうとする間際になって、母が風呂に入って暖まって行ったらどうかと云い出した。夕飯前父が入ったきり、誰も入りてがないから、綺麗だし熱いだろうというのである。
「私は面倒だから、またこの次にさせて戴くわ。――貴方はどうなさるの?」
 ゆき子は、真木に訊いた。
「――さあ、どっちでもいいが……」
「じゃあ入って来給え。ゆき子は三十分でも長くいられる方がいいんだろう」
 父が笑いながら勧めた。
「そうしましょう……じゃあ一寸失礼」
 ゆき子は、いつものように後に蹤《つ》いても行かなければ、「手拭がお分りになって?」と訊きもしなかった。立って行く真木の後姿をちらりと眺めたきり、また、母と、話の続きをしていた。妹の幼稚園を何処にしたら好いかというようなことに就てであったろう。喋っていると、十分も経たないうちに、不意と入口の扉が開いた。そして、真木が笑いながら、顔を出した。誰かと思って、ひょいとそちらを見ると、ゆき子は自分の顔色が変るのが分るような心持がした。何か真木に異常のあったことが直覚されたのだ。
「まあ、どうなすったの? 気分が悪くおなりになったの?」
 ゆき子は我知らず立上りながら彼の傍によった。傍で両親達は、怪訝《けげん》な顔で眺めている。
「どうなすったの?」
「大丈夫、大丈夫、どうもしやしない。――ただ、お湯が少し冷たすぎて」
「何? 湯がぬるかった? それは、いかん。風を引かないかな?」
「大丈夫ですとも。――中で散々暴れて来ましたから」
 熱いものを飲まなければいけないとか何とか一頻りごたごたして、彼等が×町を出たのは、もうかれこれ十二時過ていた。電車も止った深夜の大通りを、さっさと早足で歩きながら、ゆき子は、新たな驚を自分の心に感じた。
「部屋にはあれだけ人がいたのに、先ず真先に、真木に何か異ったことのあるのに気付いたのは、この自分であった」――そこには無限の意味がある。彼女は、あれほど不愉快な思をし、あれほどはっきり「構やしない」と思っておりながらも、いざという時には真先に注意が及ぼすほど、内心に深く広く行き亙った自分の愛に、感激したのであった。――
 ゆき子の狭めた眼の前には、ありありと、紺色のコートに纏り、真木と歩調を合わせて歩いて来る自分の姿が見えた。遠くまで真直、なだらかな蒲鉾なりに延びた深夜の大通り。青や赤や黄色にキラキラキラキラ瞬いている色々な街の燈火が、柔らかく黒い夜の幕に、まるで彩った大きい頸飾のように連なって見えた様子。彼女は、亢奮して見上げた空に深々と星が輝いていたことから、白い雲が一ながれ、西風に吹かれていたのまで思い起した。
 周囲の情景は、如何にも印象深く甦って来る。――けれども、ゆき子は、思い起すと腑に落ちない気分がして来た。
「真木が間違っていると信じ、それを明にしようとして争った自分が、自分の愛の深さを知ったからといって……」
 何だか、彼の誤解なら誤解をその感激で許したというのではなく、一時の気分で紛れ忘れて、また、一切かまわず絡み付いて行ったような心持がした。
「それ故何かの機勢でまた不意とそれに気が付くと、同じ瞬間的な紛れ易い執念さで跳びかかって行くのではないだろうか?」
 亢奮の後には珍らしいことであった。ゆき子の心には、繰返し繰り返し感激したり怒ったりしている定見のない自分の愚かしさが、ぼんやりながら反省にのぼって来たのである。
 軽い夕食を取ると、真木は、
「少し歩いて来よう、寝られないといけないから」
とゆき子を誘った。
 彼等は家を出、賑やかな町並とは反対に、小石川台の奥へ入って行った。
 勿論、家つづきであった。けれども、人通りがなく、ほんのりと暗い土の路と空との間に、芽ぐむ樹々の芳ばしいしとやかな香を漂わせた小路の散策は、心を和らげた。
 ゆき子は、ほんとに心持がよかった。こうして良人に親切にされ、心遣われながら共に在ることは、殆ど官能的に、理窟ない満足で心を浸す。――
 歩きながら、先刻の自分の凄じさを思い起すと、彼女は恥た、苦々しい気分にならずにはいられなかった。母などに対して、ゆき子は決してあんな滅茶にはならなかった。云うべきことは云うべきこととして、ちゃんと区画がついている。
「それだのに、真木に対すと、何もかも、可愛さも、悲しさも、一緒くたになって結局埒もないことになってしまうのはどうしたということだろう」
 彼女は、そこに恐るべき心的のだらしなさを認めずにはいられなかった。
「それだから、仕事も出来ないのではないか?」ゆき子は闇を貫くように、或る考えに打たれた。
「自分が若し、真木を一番愛しているということで、彼を最もよく知っていることを主張するなら、同じ強硬さで、自分に対して、同様のことを主張し得る筈ではないか? また、彼女はああやって先達のように、激しい熱情でそれを示す。けれども、自分はその全部を正鵠を得た直覚または観察として、受けられただろうか?」
 ゆき子は、正直に「否」と云わずにはいられなかった。世の中に母の愛ほど、その母の中でも自分の愛ほど深大な且つ純粋なものはないという位の強い信念の下に立った寿賀子の或る場合は、却って激情そのものの息苦しさほか感じさせない。――「それがどうして、自分の感情にも起らないことだといえるだろう!」結婚後、俄に自分のうちに育ち始めた所謂「女らしさ」可愛いとか、優しいとか、または上品だとか、種々な形と言葉とで現わされる、手応えのない妙に焦点を外に結ぶ女性の肉感性。それ等に彼女は疑い深い眼を向けずにはいられなくなった。

 寝床に入ると、真木は優しく、
「気分はいいかね」
と傍のゆき子に声をかけた。
「え、有難う、大丈夫よ」
「――よくおやすみ」
 真木は自分の場所から手を延して、静にゆき子の頭をたたいた。けれども、彼女は、いつものように、それを倍にして戻す気分にはなれなかった。
「――おやすみ遊ばせ」
 ゆき子は、何か、心の中に、今日一日で嘗てない新しい一つの道がついたような心確かさで、良人の静かな輪郭《プロフィル》を眺めた。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング