そうそう甘やかしてどうするつもりなんだろう!」
 ゆき子は、母の不快に圧せられた。彼女は、云いようない淋しい気持がしたけれども、この上再び、不愉快な亢奮を醸すことを危ぶんだ。ゆき子は、言葉少く電文を纏め書生に頼んで、最寄りの局から返信付で、×県の真木に送ったのであった。
 寿賀子の不機嫌は、決してそれ限りで消えたのではなかった。
 父が帰宅し、風呂がすみ、夕飯が始って皆が卓子に就くと間もなく、寿賀子は、誰に云うともなく、正面の席から、
「明日の朝、真木さんが帰って来るんですってさ」
と云った。言葉は、何でもない。が、そのうちには、今まで、賑やかにわやわやしていた口々の雑談を、ぴったり沈黙させるような一種の調子が籠っていた。
 父の隣席に坐り、箸を採っていたゆき子は、思わず胸が強るような刺戟を感じた。彼女は見えない力に押されて、
「まだわかりゃあしないのよ!」
と、力強く否定した。
「どうしたんだね」
 傍から、父が穏やかに振返った。
 ゆき子は、沈んだ短い言葉で、午後「速達」の来たことや真木に電報を打ったこと等を説明した。が、彼方側から、凝っと自分を見守っている小さい者たちの瞳が、云い難い苦しさを与えた。彼等は、母の語調から、何かただならぬ気勢《けはい》を感じたのだ。そして驚きと知りたさとで、箸を持っている手を止め、眼を瞠《みは》って、姉の素振りに注目しているのである。
「そうか、必要なら帰って来るだろう、まあいいさ」
 訳が分ると、父は淡白に葡萄酒の杯を挙げた。けれども、弟妹、とくにみよ子は、決してそうさっぱりとはすませてくれなかった。
 姉の云うことに耳を欹《そばだ》てていた彼女は、やがて母と姉とを等分に見ながら、疑しそうに、
「ゆきちゃま、帰るの?」
と質問した。そして、傍から、ゆき子が何と云う間もなく、
「ああ、お帰りになるのよ」
と母の返答を受けると、いきなり貫くような大声で、
「ゆきちゃま帰っちゃいやあ」と叫んだ。そして、箸も何も持ったまま姉の傍に馳けつけて、半分体を凭《よ》りかからせながら、手をぐいぐい引張って、「帰らないのよう、よ、ゆきちゃま帰らないのよ」と、強請み始めた。
 半分、母の顔色を眺めているような妹の態度から、ゆき子は、純粋に、その引止めを嬉しく感じ得なかった。彼女は、力のある小さい手を押えながら、
「静にするのよ、静にして頂戴」
と云った。
「まだ分らないんだから、そんなに騒がないのね、いい子だから。――帰ったって、いいじゃあないの、またみよちゃんが来れば『今日は』って――」
 ゆき子は強いて笑顔になった。
「そうだそうだ、兄さんと行って、沢山御馳走をしてお貰い。それにしても、御飯を食べない子なんかは厭だとおっしゃるぞ」
 父も傍から、面白半分にゆき子を助けた。稍々陰気になった一座の気分は、それやこれやで、何時とはなく転換された。
 偶然か、或は意識してか、平常よりは一層気軽な父と、釣込まれた妹との懸け合いで、とにかく晩餐は、笑のうちに終ったのである。
 併し、ゆき子は、その時ばかりは×町へ来て始めて味のない食事をした。
 団欒のうちを、そっと部屋に引取って来ると、彼女は泣き出したいほど△町の家の恋しさに攻められた。うるさいと思ったり、つまらないと感じたりした自分達二人きりの家、その家の日々の暮しが、まるで、魂を吸い取るように懐かしく思い出されて来たのである。
 あれほど希望に燃え、意気込んで来たことを思えば×町での万事は失敗だと云える気がした。
 第一、仕事は相変らずちっとも出来ない、より深い憂鬱を感じる。――母と、感情の縺《もつ》れを起したことだけでも、全く予期には反していた。母も、勿論そうしようとは思わなかっただろう。自分とても、意企して惹起したことではない。けれども事実は、被い隠せない。真木が、彼の表情のかげに漠然と漂わせた危惧がすっかりそのまま、象《かたち》を具えて現れたと云っても好いのである。
 然しゆき子は、自分の計画が失敗したことを、些も良人の前に自尊心を傷けられることとして、愧《はじ》る気にはなれなかった。意地を張って、何とか、彼とかよかった点を見付け出して説明しようとする気もなかった。しんから折れて、自分の心が安らかに棲むべき処は、矢張り「私共の家」ほかなかったことを、承認せずにはいられない心持がするのである。
 自分が頑張って良人に譲歩をさせたことが、ゆき子には、今になって苦しいような心持がした。
 自分達の、慎ましい簡素な日常を、更に新しい愛で思い返すと、女らしい献身《デボーション》がゆき子の渾心を熱くした。つぶった眼の奥では、ありありと、何故か冬の夜らしく閉め切った八畳の部屋が浮上った。明るい燈火、こもった空気の暖かさ。そこに、机に肱をかけてこちらを向いている良人と向い合って、何か云い云い笑っている自分の姿が、あらゆる楽しさを聚めたように、輝く卵色の一点に、小さくはっきりと見えるのである。
「…………」
 ゆき子は、身ぶるいを感じた。ほんとに、良人の帰るのが待たれた。これほど、△町での生活をいとしく思ったことは今までただの一度でもあっただろうか。
 翌朝、ゆき子は、例にない時刻に床を離れた。
 そして、真先に顔を合わせた者に、
「電報は来なかって?」
と訊いた。が、返事は失望であった。
 顔を洗いながらも、あまり早くて自分の一人の食堂で新聞を拡げても、ゆき子には、そればかりが気にかかった。
 若し、出席の必要なし、とでも云って来たらどうだろう! 昨夜から、真剣に良人の帰京を待ち侘びるゆき子は、思っただけでも慄《ぞ》っとした。
 廊下に通じる扉が開く度に、ゆき子は恥しいほど、はっとして、何をしていても、素早く頭を持上げた。ただ、待っているのは猶辛いので、おちおち味も分らず、とにかく、皆と、朝の紅茶を啜っていると、いきなり、書生がひどい音をさせて、入って来た。手には、電報らしいものがある。
「来たの?」
 彼女は、手を延してそれを受取ると、
「有難う」
と云う間もあらせず封を切った。おきまりの読み難い片仮名ながら、はっきりと、
「アスアサ九ジツク」
と書いてある。――
 ゆき子は、我知らず次第に微笑み赧くなりながら、激しい鼓動と共に、深い溜息をついた。

「ね、おかあさま」
 やがてゆき子は、強いて溢れ出るうれしさを抑えつけた明るい顔で、母に振向いた。一夜過ぎた今朝、彼女は信じられないほど、「よい母」になっていた。まるで、反動のように優しく落付いて、同時に、
「さあ、大変! 旦那様のお帰りだ」
とゆき子を揶揄《からか》ったほどの快活さまで取返していたのである。
 母の好機嫌で、一層の歓びを感じながら、ゆき子は問ねた。
「おかあさま、真木が真直にこちらへ来るとお思いになって? それとも△町へ行くでしょうか?」
「分らないね。――電車の都合は△町のほうがいいんだろう?」
「それはそうよ。だけれどもあのひとは鍵を持っていないんだから、若し、あちらへ行ったら入れないわ」
「馬鹿な人!」母は笑った。「それなら、一旦こちらへ来てから、△町へ帰るに定まってるじゃあないか、確かりおしよ!」
 ゆき子も、おかしそうに笑った。
「でも、若しか、私が帰って行っていると思いやしなくって?」
「そう思うなら、お帰りな。――いずれ、××大学の方が済むのは、二時か三時頃なんだろうからそれまでに、ゆっくりあわてずにきめたらいいじゃあないか、――どれ」
 母は時計を見て立上った。
「もう直き先生がいらっしゃるから、一寸習っておかなければ……」
 彼女の習字の先生が、その日は十時から来ることになっていたのである。
「二階へ来るかい?」
「さあ……」ゆき子は、ぼんやりと母について立上った。
「どっちみち、お昼をすまして行くだろう?」
「――分らないわ私」
 昼を済して行ったらと云われると、ゆき子は、急に、真木の会議が十二時頃までに仕舞いそうに思われて来た。
 若し、正午に終るとすれば、確に荷物を停車場へ一時預けにしている彼は、それを取って、一番順路である△町へ来るだろう。一時過だし、電報は打ってあることだと思って戻った彼が、自分の家の前で立往生するのを想うと、ゆき子は放っておけない心持がした。どうしたらいいだろう? 考えながら、ゆき子は階子口に立ったまま、見るともなく、重そうに階子を昇って行く母の後姿を下から眺めた。段々上り切って、角を廻って見えなくなりかけると、彼女はあわてて、
「おかあさま」
と大きな声で呼んだ。彼女は、帰ろうと、とっさに思ったのであった。が、
「なんだえ」
と云って母の顔が覗くと、彼女は、また言葉につまった。そして、間の悪い、ぼんやりした笑顔を仰向けて、首を振り振り何でもないという合図をした。
 そこに、ゆき子は、やや暫く、頭に指を組合わせた両手を載せたまま突立っていた。それから、母の居間に行って鏡を見ながら、潰れた髪の工合をなおすと、また食堂に戻って行った。廊下へ出、客間へ行き……ゆき子は、幾度、家中をぐるぐる廻っただろう!
 十一時になると、到頭、彼女は我慢が出来なくなってしまった。二階には、もう先生が見えたらしい。
 彼女は、思い切って女中に俥を呼ぶことを頼んだ。そして大いそぎで、散かった物をまとめ、着物を換え、愕き笑っている女中に、母への伝言を託すと、飛び出すように×町の門を出た。
 俥は不思議なほど、のろく思われる。人通りの少ない屋敷町の垣根から差し出た白木蓮の梢や新芽を吹いた樫の下枝が、天気のよい碧空の下で、これはまた美しく燦めいて眺められる。――

        四

 ゆき子は、まるで嬉しさで輝き透き徹る歓びの玉のようになって、今にも現れる良人を待っていた。小さい家は、すっかり開け放され、到る所の隅々に踊る日光が迎え入れられた。彼女は、久し振りに自分の手で触られ、忽ち活々した弾力と愛らしさとを恢復したように見える部屋部屋に、それぞれ綺麗な花を飾りつけた。庭を掃き、水を撒き。小さい虹を抱いて転げ落ちる檜葉の露を見つめながら、ゆき子は、いつか、激しい緊張の合間合間に来る、奇妙な放心に捕えられていた。――
 ところへ、思いもかけず格子の開く音がした。ゆき子は、今まで自分が待っていたのを忘れたように、はっとした。身の竦まる思いがした。と、同時に素早く体を翻して、足音も立てずに玄関まで駆けつけた。彼女は、胸をどきどきさせ、笑い、口を開き、今にもそこが開いたら、跳びかかろうとする小猫のように、障子の際に蹲ったのである。
 たたきの上で、向を換える音がする。――狭い式台の上に、何かおいた気勢がする。――ゆき子は、心臓が飛び出しそうな気持がした。そして、一層体を引緊めた途端。前の障子は、いかにも曲のない、
「只今」
と云う声と一緒にさらりと引開けられた。息を窒め、覚えず膝をついて立上ったゆき子は、良人の眼を一目見ると、あらゆる歓びのくず折れる思いがした。
 真木は、彼女の方にちらりと物懶《ものう》い一瞥を投げたぎり、差し延した両手に注意する気振りもない。日にやけ、汗じみ、面倒くさそうに帽子をかなぐり脱ぐと、彼は、
「ああ、あ。――只今」
と、どっかり式台に背を向けてしまったのである。
「――」瞬間、激しく胸にこみ上げて来た悲しさを堪えると、やがてゆき子は、涙と一緒に大声で自分を嘲笑したいような気分になった。
「昨夜から、あんなにも待ち、あんなにも思い焦れていたのは、こんなものだったのか?」
 薔薇色の愛らしい世界は、しおらしく有頂天だった彼女を包んで、嘘より淡く消えてしまった。
 苦々しい失望と詰らなさとが、これほどの感動を認めるだけの情緒すら持ち合わせないらしい真木に対して、激しい勢で湧上って来たのである。――が、ゆき子は辛うじて自制した。
 長い旅行をし、汽車が混んで或いは昨夜一睡もしなかったかも知れない彼に、第一そんな気分を持てると思ったのが間違いであったのだ。――
 彼女は、やっと静かな声で、
「お帰り遊ばせ、どうだって?」
と云った。先刻までの気持に比べれば、何
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