ると、却ってまごついてしまうわ」
「それはそうだとも――気なんか揉みはしないがね」
 そう云っても、ゆき子は、母の沈んで行く表情を見逃すことが出来なかった。
「どうせ落付いて一年も経たなければ、仕事なんか到底纏まるまいとは思っていますよ。ゆきちゃんは、私なんかより余程男らしいようでいて、また、しんから、女のところがあるものね」
「それはそうかもしれないわね」
「そうだとも……とにかく、何だね、今のような調子で行ったんじゃあ、一年経とうが二年経とうが、到底仕事なんかはおぼつかないね」
 寿賀子の顔には、急に何ともいわれない自棄的な色が現れた。何が原因となったのかは分らないが、彼女は、これ等の言葉をまるで昨夜一晩じゅう思いつづけていたに違いないような確かさと、冷かさとで云い切ったのである。
 思わず母の顔を見、ゆき子は、胸を貫かれる思いがした。
 今の今まで、彼女は自分ではその怖ろしい想像に怯え抜いていたのではないか。それを、さながら裏書するように、面と向ってしかも母に、こう云われることは堪らなく辛い。恐ろしければ恐ろしいほど、彼女はそれを平然ときき流すことが出来なかった。
「何故そうお思いになるの?」
 ゆき子は、我を忘れて詰るように問い返した。
「だって事実だもの」母は、さも当然だという風に落付いて見えた。
「気持が二半では、どんなことだって出来っこないよ。……全く、お前のように何か遣ろうとする者に、結婚は大問題だね。まるで気分でも何でも違ってしまうんだもの――」
 その悔恨めいた数言を聞くと、ゆき子は、はっきり母の衷心にある気分を知ったような心持がした。
 それと同時に、何処まで行っても抜け切れない暗闇の洞穴に向ったような気がした。底流では話の中心が、もうすっかり異った点に移ってしまったのだ。が、ゆき子は努めて、会話を穏やかに進行させようとした。
「男の人に比べれば、どうしてもそうらしいわね」彼女は考え考え答えた。
「けれども、一方から考えれば、それだけ、結婚は女の人にとって本質的に重要だし、大切な発達の一段になるのじゃあないかしらん――少くとも、私は、自分にとってそうだと思うわ」
「勿論そうさ。よく変って行きさえすればね」
「よく変る、悪く変る、は、各自の態度によるのじゃあないの? それに向って行く――」ゆき子は母の顔を眺めた。
「それはそうだろう。併し、或る人は」寿賀子も、真直に娘の眼を見た。
「自分でだけいいと信じて、実際は間違った方へ行きながら、一向人の云うことなんか耳にもかけないような者があるからね、恐ろしい」
 ゆき子も母の諷刺には感付かずにいられなかった。それと分りながら遠廻しな話を続けるのは一層心苦しい。先刻からの気分の続きで彼女は母との間の見えない薄膜を一突に突破るような激しい気持になった。
「おかあさま、はっきり話そうじゃあないの。――おかあさまは、私が真木と結婚してから、すっかり悪くなったとお思いになるんでしょう?」
「ああ、変ったね」寿賀子は、その激しさを、きっかりと受止めて、殆ど憾みのこもった眼でゆき子を見た。
「第一、考えて御覧な。結婚してから仕事の出来ないことだけを見たって、いいとは云われないじゃあないか」
「こんなことは決して何時までも続くもんじゃなくってよ」ゆき子は、これだけはどんなことがあっても確かだ、と云うように断言した。
「きっと通りすぎることよ。今までの生活とはまるで境遇が異ってしまったんですものね。そうお思いにならなくって? おかあさまだって、結婚なすったばかりの時を考えて御覧遊ばせよ。きっとそうだったに違いないと思うわ」
 彼女の声の調子には、しんから優しい一種の響がこもっていた。が、寿賀子は、まるで侮辱されたように、激越した言葉でそれを否定した。
「私の結婚したてなんか、泣いてばっかりいましたよ。――それにしても、何故お前は、何だというとそう一々弁解したり、説明したりしようとするんだろう! 私ばかり云い伏せようとしたって駄目だよ。現在、仕事は出来そうにないじゃあないか。種々人に訊かれたり厭味を並べられたりしても、凝っと堪えて、いつか出来るかと思って待っているのに――」母は、ふるえて来る声をぐっと堪えた。「境遇だ、境遇のせいだ、と云っているけれど、一体それは、何時どうなるの? 放って置いて、ひとりでにどうにかなるのかえ? お前は境遇境遇と何か一つの動物見たいに云うけれども、境遇といったって、詰り対手じゃあないか? 相手の人格じゃないか」
「――だけれどもね、おかあさま」
 ゆき子は、思わず熱心を面にあらわした。
「私の仕事の出来ないのを、若し、真木の故だとばかり思っていらしったら、大変な間違いよ。勿論、若し、あの人が私の仕事なんかどうでもいい、止めてしまえと思っているんなら、悪いわ。だけれども、そうじゃあないんですもの、あの人だって、随分心配しているんですもの。――また」ゆき子は、涙ぐんだ。「若し、私の仕事なんかどうにでもなれ、と思うような人なら、始めっから結婚なんか、しやしない筈じゃあないの」
「――それは、真木さんは、お前なんかとは比べものにならないよ」
「まあ、どうして?」ゆき子は、愕いて母を見た。
「どうしてって――あの人はお前より、役者が上だよ」
「ごまかしているとおっしゃるの?」
 ゆき子は、たとい相手は母ながらも、必死な力が衝上げて来るのを感じた。
「まさか、それほどではあるまいが、少くとも、お前をすっかり、把握しているのさ」
「お互に影響し合うのは、勿論あたりまえのことじゃあないの?」
「お互なら云うことはないさね。けれども、私の目が間違っているかは知れないが、あのひとは、事実お前を支配しているよ。上手にお前だけを反省させておくね」
「…………」
 ゆき子は、今更ながら母の真木に対する隔意を感じずにはいられなかった。彼女が自分の為を思い、仕事の纏まらないのを心から憂いていてくれることは疑もないのだ。けれども、その気持を言葉に出して云おうとすると、或は、総括した考えとしての筋をたてるとなると、彼女は、先ず真木という名に当って行かずにはいられないのだ。ゆき子は、母の衷心は明に察せられた。然し、真木に無節操な批評が加えられるとなると、ついに我慢がならなかった。彼女は、殆ど本能的な抗弁の衝動に駆られるのである。麗らかな庭の春景色に比べては、余り凄じい暫くの沈黙の後、ゆき子は、辛うじてこれだけを云った。
「おかあさまが、私を愛し、心配して下さるのは、ほんとに有難く思いますわ、ほんとに! だけれども、その気分の反動でだけ、真木を批評しては戴きたくないわ。私も何か云わずにはいられなくなるんですもの。それは、真木は偉大な人格者でもないし、素晴らしい天才でもないけれども、少くとも、自分の愛する者に対しての真心位は持っている人です」
「――お前は、そう思っているのさ」
「――夢中になっているとおっしゃるかもしれないけれども、とにかく、私は、おかあさまよりは真木がどういう人間だか知っていることだけは信じますわ」ゆき子は、心が燃え上るのを感じた。
「おかあさまは、御自分で選んで下さった人のことを、若しこういう場合になったら、そういうふうにおっしゃること?」
 寿賀子は、全く、この言葉に打れたように見えた。
「真木さんのことになると、お前は気違いだよ。どうせ……どうせ」急に声が力なくふるえた。「自分で好きこのんで結婚なんかして、それっきり仕事も出来ないような女なら……どうせ、それだけに生れついているんだから……」
 唇の色が変り、涙が流れ出すのを見ると、ゆき子は、堪らない気持になった。
「おかあさま!」
「いいよ、いいよ、放っておいておくれ」
 寿賀子は娘の手をよけて横を向きながら袂を顔にあてた。
「どうせ……私が親馬鹿で……わたしが、ばかだったんだろうよ!」
 激しい歔欷に見かねてゆき子は母の肩を抱いた。
「ね、おかあさま、聞いて頂戴。おかあさまはね、私が、一生懸命に仕事をする気にもならないで、のんべんだらりと真木にこびり付いているとお思いになるから、そんな風にお思いになるのよ。私だって決して平気じゃあなくってよ。どうにかしてやりたいと思っているんじゃないの」
 ゆき子は、涙がせき上るのを感じた。
「私だって、仕事も出来ずに生きていようとは思わなくってよ。ね。おかあさま、信じて頂戴よ。何か遣れる人間だということを信じて頂戴よ。ね、おかあさまに、絶望されるのは、一番堪らないわ、全く……」
 自分も涙に濡れながら、ゆき子は、そっと湿った後れ毛を母の頬から掻きのけた。

        三

 ××大学から、真木宛の「速達」が廻送されて来たのは、丁度それから間もない午後のことであった。
 亢奮の後の疲労と深い憂愁とで、ゆき子は、ぼんやり畳廊下の柱に凭《もた》れながら、考えに沈んでいた。
 彼方では小さい妹が、首を振り振り力を入れてオルガンを踏みながら、あどけない歌を唱っている。素絹《すずし》のような少女の声と、楽器の単音が、傾いた金緑色の外景とともに、微かな寂寥を漂わせる。
 彼女は、今更のように、複雑な人間の愛を思っていた。
 そこへ、女中が来た。そして思いがけない「速達」が手渡しされたのであった。
 葉書は、始め彼等の家の方へ配達されたのを、隣家の好意で、また×町まで廻されたのだそうだ。何か、新入学生資格詮衡のことに就て、委員である真木が、明朝十時から、是非とも出席を要する会議の通知なのである。
 ゆき子は、その場合、特別な懐しさを感じながら、手にとって、表記の真木潤一という宛名をながめた。それから、また改めて裏を返した。文句は肉筆で書かれているのみならず、「是非とも」の四字には、特に朱で二重圏点さえ打ってある。
 ゆき子は暫く考えた。
「ただ、留守です、ぎりでいいかしらん……」
 彼女の頭には、閃くように、電報を打とうという考がうかんだ。
「若し、帰った方がいいと思えば、便宜の汽車を見出して間に合うように戻るだろう。若し、必要がなかったら――勿論、予定の十日をいて来るだろう……」が、後の場合は、彼女に十が一も無さそうに思われた。
 ゆき子は、やがて葉書を持って母の居間へ行った。彼女は、裁つもりものをしている母の傍で、相談をしいしい電文を作ろうと思ったのである。
 六畳の、平床に花鳥の淡彩をかけた部屋の中は、静に落付いている。母は、懸け鏡に綺麗な耳の辺から髷の辺を照返しながら、ひっそりと地味な絹物をいじっていた。ゆき子は、入って行きながら、
「おかあさま……」
と呼んだ。
 母は、やや沈んだ、併しすっかり平静に戻った顔を振向けた。
「なあに?」
「あのね、今、こんなものが来たのよ」拡がった布をよけて、傍に坐りながら、ゆき子は葉書を見せた。「云ってやらなければいけないわね。どう?」
「そうさね、何か、相当な用らしいね」
「ただ、いませんだけでは済まないわね? 私電報を打とうかと思うの? その方がいいでしょう?」
「何て?」母は、再び布地に物指しをあて始めた。
「何てって……」ゆき子は、母の無感興を感じ、困った気持になった。
「こうこう云って来たが、帰るかって訊いてやるんじゃあないの?」
「――いいだろう……」
「じゃあそうするわね。……何て書いたら好いかしらん」
 ゆき子は、針箱の傍に頼信紙を展べ、その上に窮屈そうに屈みながら、頻りに指を折って、要領のよい電文を拵えようとした。けれども、彼女の心を冷したことは、母が一向親身になって、相談に乗ってくれないことである。ゆき子が、一生懸命に、
「ね、おかあさま、これですっかり意味が通じるでしょうか?」
と問ねても、「もっと好い云い方を教えて下さらない?」と頼んでも、彼女は、糸じるしをつけながら、ただ義務的に、「そうだね」とか、「さあ……」とか呟くばかりなのである。そればかりか、余り幾度も、娘が同じ文句を繰返し繰返し考えているのを見ると、彼女は殆ど怒ったような調子でつぶやいた。
「子供にやるんじゃあなし、いい加減で好いじゃあないか。
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