仕合せ!」
「いやなおかあさま!」
二人は声を合せて笑った。
「とにかく――ほんとにおいで。歓迎してあげるよ。久し振りだものねえ……いつだったか、一晩泊って行ったきりだったろう?」
住居が近所なので、顔を合せる機会はあっても、共に心置きなく寝起する楽しさを久しく取上げられている寿賀子は、気の毒なほど悦んだ。彼女は、思わずゆき子が、溢れ出す愛を感じたほど、暖い心と眼で、迎えてくれたのである。
ゆき子は、万事が上々吉の喜びで、飛ぶようにして、家へ帰って来た。
「大丈夫! きっとうまく行くことよ。随分かあさまも嬉しがっていらしったわ。有難う、ほんとに。若しうまく行けば、お礼なんか云い足りないわね」
真木の立ったのは、麗らかな四月の第一日であった。爽やかな白っぽい朝日が、やや取散らした八畳の座敷に微風と共に流れ込んだ。ゆき子は、軽装で沓脱石の上に立った真木に頬を差出しながら、
「行っていらっしゃいまし。どっちもおうち[#「おうち」に傍点]へ帰るのね」
と云って笑った。
数刻の後、彼女は家を片づけ戸締りをし、極く必要なものだけを小さいスーツ・ケースに入れて、晴々と希望に満ちて×町へ来たのである。
二
×町での歓待は、何だかゆき子に、漠然と極り悪さを感じさせたほど、深甚なものであった。
七つになる妹のみよ子などは、朝幼稚園に出て行がけに、定って靴を穿きながら、
「ゆきちゃま、今日もいるの?」
と姉に問《たず》ねた。
「ええいることよ、何故?」
ゆき子は、式台の上で蹲《うずくま》り、笑いながら、妹の小さい肩や手の運動を眺める。
「幼稚園から帰るまで帰らないでいらっしゃる?」
「大丈夫! きっと帰らなくてよ」
「いるのよ! ねえ、ねえ」
となおなお念を押しながら、書生に伴をされ、おかっぱの頭で振り返り振り返り植込みを曲って行く姿は、ゆき子に、訳の分らない涙さえ浮ばせた。
献立には、特に彼女の好きなものが取入れられた。風呂さえ毎晩、ゆき子のために、火を入れられた。そして、影の形に添うように、母は、飽きない話の無尽蔵で、娘を賑わした。ゆき子はこの時になって、始めて、家中の者が、どれほど自分を愛し、一緒に暮すのを悦んでくれるか思い知ったといっても過言ではないのである。
彼女は、またもとの自分の部屋である六畳に机を据えた。結婚するまで六七年の間、あらゆる場合の伴侶であった古びた狭い前栽が、また、閑寂な陽春の美に充ち満ちて目の前に還って来た。
土庇に遮られて柔かい日光を受け、朝夕は、しめった土の匂を感じ、嘗て知ったあの落付と集注とは疑いもなく再び彼女の心に甦って来ると思われたのである。
昼間は、どうしても、弟や妹や母が、彼女を独りにさせてはおかない。快活な父親を芯にして、まるで咲きこぼれたような夕餐がすむと、ゆき子は、絡みつくような多くの視線から、強いて自分を引離して、書斎に帰って来た。
そして、すがすがしい夜気の中に燈火をてらし、ひやりと冷たい机の前に坐り、さて、心を鎮めて紙に向う。――が、一夜二夜経つうちに、ゆき子は思いも懸けない新しい事実を発見した。
それは、この六畳さえも、今はもうただ、静寂な一室、というだけの影響しか、自分の心に持っていないということなのである。
先、ゆき子は、陽気な食堂や客間からここに引取って、一旦、静に光を吸う茶色の砂壁に囲まれさえすれば、もうそれだけで完全に、集注した心を取戻せた。暗い曲りくねった廊下と、低い襖に画られた一重こちらは、さながら、いつも見えない感激に満ちた霊魂の仕事場であったのである。
それが、今、ここに坐ると、ゆき子は、極くなみなみの静けさのみを感じた。先ず、ほっとする。そして、机の上に頬杖を突き、濃い庭の闇からぼんやりと浮上っている紫陽花の若芽を見守っているうち、心は仕事に集結するどころか却って模糊として来る。そして、その放心の奥から次第に真木の存在が、はっきり俤《おもかげ》に立って来るのである。
特別、彼が恋しいのではない。また慕わしさに気もそぞろになるというのでもない。併し、日中は、まるで見えない腕で確かりと抱き竦めたように、直面《ひためん》に、唯、彼女と彼等との交渉ほか意識に休ませない周囲の状況が、自らほんとに独りになると、彼女に良人を思い偲ばせるのであろうか。
香の煙が立昇り、見えない空気にゆらぐように、「彼」に心が漂い寄ると、暫く、ゆき子は、云い難い親密さと、寂しさとを同時に感じた。
彼方の黒い植込みからは、チラチラと陽気な燈火が洩れる。「あの、面白そうな笑声! けれども、自分は、ここで、独りで、始めて、感情の全部を恢復し得るのだ。」――全く、家中の者は、悲しいほど、彼女ひとりにたんのう[#「たんのう」に傍点]してくれた。誰も、彼女と共に真木の存在や気分を勘定には入れてくれない。若し、自分が、このまま一生居据ると云っても、恐らく誰一人それを真木のために愕きかなしむ者はなかろうと思うほどの皆の雰囲気が、却てゆき子をしんから悲しくするのである。
床に就くまで部屋に籠っても、ゆき子は仕事に関して、一行の纏った収穫も得なかった。
真木から来た絵葉書をまた丁寧に繰返して見なおしたり、思うともなく×県の、倉座敷で、蘭や夾竹桃の生えた家を思い出したり……、彼女の目の前には、何か云って笑いながら頭を振る良人の顔つきが、身動きをすると胸の痛むほど鮮に甦って来る。
ゆき子は、余り心がさしせまると、そっと雨戸をあけてとめどもなく、月のない庭を歩き廻った。
大きな青桐のかげ、耳を澄すと微に葉ずれの音のする椿や槇のこんもりした繁み。――雨戸を閉め切った大きな家は、星の燦く空の下で、悲しく眠り傾いたように見えた。
――丁度、×町へ来てから五日目の朝であった。
ゆき子は、珍らしくその日は起き抜けから創作欲の亢奮を覚えていた。前夜、晩くまで読み耽った或る科学者の伝記が、持病になりかけた彼女の感傷を追払った。二三日来とかく頭を曇らしていた陰鬱は去り、朗らかな愛と勇気とが、曇のない朝の光線と共に、爽やかに身内に感じられるのである。
健康な熟睡から醒め、体を洗い、彼女の肉体の潔らかさと共に魂の貞潔まで感じるような心持がした。息は深く、四肢に人間らしい力が漲り、自分の精神によってこの世に産れ出ようとする愛すべき無形の何ものかに、全心が本能の慕わしさで牽きよせられる気がするのである。
ゆき子は、早めに朝飯を終り、出勤する父親を見送ると、そのまま自分の部屋に引取った。そして、下見窓から流れ入るほどよい朝かぜにかこまれ机に向うと、彼女は、嬉しさで心がときめきを感ぜずにはいられなかった。
「これでこそ来た甲斐がある!」
ほんとにこの間じゅうのようでは、来ない方がよかったとさえいえる状態であった、あれほど固執して×町へ来た価値が何処にある。が「今日こそは!」ゆき子は、若い雌馬が勇み立って、その鬣《たてがみ》を振るように、肩と頭とを揺りあげた。そして、改めて坐りなおし、気を鎮め今まで書き溜めた頁を読みかえしているうちに、眼の前には、これから描くべき情景《シーン》が、ありありと見え始めた。
そこは、日本ではなかった。鮮やかな楡の若葉が、ちらちらと日を漉く草の上に、軽らかな夏著をまとった若い女が、肱をついて長々と臥《ね》ころがっている。傍には、栗鼠《りす》が尾に波うたせながら遊んでいる。静けさ……涼しい風。不意と、人影に驚いて立上る拍子に、きらりと光った金の小金盆《ロケット》や飾帯《サッシ》の揺れを、四辺の透明な初夏の緑色を背景として、目のあたり見るような心持がした。熱した想像の中に自他の境が消えうせる。――彼女は筆を下した。次第に高潮して来る感興を根気よく支えながら、彼女は、一字一字と書き進めて行ったのである。――
若し、そのまま続いて行ったら、ゆき子は狂喜して、四月五日というその日に感謝を捧げたであろう。けれども、或る処まで行くと、彼女は、突然、我にもない力の喪失を感じ始めた。文字と心とが、次第に鈍い抑揚《めりはり》になって来る。如何に心に鞭を打ち、居住いを正して気を引緊めても、一旦緩んだ亢奮はただもう弛緩するばかりである。ゆき子は、足がかりもない砂山の中途から、ずるずるずるずると不可抗力で谷底までずり落ちるような恐怖に打たれた。捉まろうにも物がない。縋り付く者もいない! 彼女は恐ろしさに堪りかねて、泣きそうになりながらペンを捨ててしまった。
「!……」
今日まで半年の間、ゆき子はこの恐ろしい失望に面して来たのだ。「精神が稀薄なのか。持ち越す精力が足りないのか? 結婚するまでは、なかったことだ。自分は真木を得ると一緒に、この致命的な悪癖とまで婚姻してしまったのだろうか」特に、その朝は、前触れの気持が素晴らしかっただけ、希望が大きかっただけ、彼女の顛落は堪え難いものであった。
苦しさに充血したような彼女の眼前には、最も無表情な瞬間の真木の顔が、この上ない煩しさで浮んで、消えた。隣からは、ふざけ散した女の笑声がする――ゆき子は、今にも体がブスッ! と煙を立ててはち切れそうな自暴を感じた。
瞳には漠然と、昼近い何処やら厨房の匂のする日向の外景を見つめながら、彼女の暗くなった頭のうちでは嵐のように自分の結婚生活に対する疑が渦を巻いた。どの位、時間が過ぎたろう……。
不意に、背後で襖の開く音がした。ゆき子は、思わずはっとして我に還り、いそいで顔を振向けた。
彼女は、こんな気分の時、誰の声も聞きたくなかった。若し、妹か女中だったら、何より「後にして頂戴」と云おうとしたのであった。が、短い視線に写ったのは、その中の誰でもなかった。母が、結いたての束髪の頭を下げて、ゆっくりと低い鴨居を潜《くぐ》って来る。――ゆき子は、云い表せない困惑と圧迫とを感じた。彼女は、母が自分の気分に対してどんなに敏感であるかを知り抜いていた。「これほどの陰鬱は到底隠せない。一目で見てとっておしまいなさるだろう」そして。――ゆき子は、振向けたままの顔に、強いて和らぎを添えながら、
「なんなの?」
と云った。
「別になんでもないんだけれどね」寿賀子は、女らしい黒い瞳を動かしてあちこちと部屋の様子を見廻した。
「どう?」
勿論仕事はどうかと云うのである。ゆき子は、覚えず、声が窒《つま》るような心持がした。
「さあ……」
彼女は、座布団の上で一廻りし、机に背を向けて母と向い合った。
「お坐りにならない?」
「ああ」
問をかけて置きながら、寿賀子は、格別確かな返答を求めるらしくもなく、庭を眺めた。
「相変らずここはいいね、静で。――それに、一寸御覧、不思議にあの楓だけは虫がささないじゃないの」
ゆき子は、窮屈に首を廻して外を見た。なるほど、庭にある大抵の紅葉は鉄砲虫に髄を食われて一年増しに貧弱な枝振りになっている中に、その樹ばかりは、つややかな槇の葉がくれに、さながら、臙脂茶の絹色をかけたような若芽を美しく輝やかせている。しかし、それを眺め愉しむには、彼女の心持は、余りに切迫したものであった。
正直にいえば、彼女には、母のそこに来た訳が推察し兼ねた。何か用があるなら、それだけを早くすませて、一刻も早く独りになりたい気持が、激しくゆき子をせき立てた。彼女は、母の気を害うのを虞《おそ》れながらも、
「何か御用だったの?」
と反問した。
「用じゃあないがね、どうしているかと思ってさ。――」
寿賀子は、娘の顔を見た。そして、忽ち娘の焦燥に照返されたように、微に表情を換えながら先に続けた。
「それに、昨夜も寝られないでつい種々考えたんだが、若し、ここにいる方が気分が纏まるようなら、当分いるのもよかろうと思ったのでね。――出来そうかい?」
ゆき子は、声を出すより先に、自分でも心付くほど陰気な笑顔になった。
「あんまりうまくも行かないわ。――でもね」母の心持を思いやって、ゆき子は強いても張のある声を出そうとした。
「余り心配なさらないで頂戴よ。今によくなるから……あんまり傍で気を揉まれ
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