そり夕闇深く感ぜられる一刻である。
 彼女の眠たげな心の前には、不図、つい一月ほど前の或る夕の光景が浮み上って来た。ゆき子は、ぼんやり、
「……暖くなったこと」
と思ったのだ。それにつれて、こうしていると手足の先がしんまで冷たくなった先月の或る日が思い出されて来たのである。
 何でも多分土曜日であった。
 午後から睦しく一緒に何か読んだり書いたりしていた彼等は、ゆき子が何心なく指摘した真木の誤字のことから、段々|逸《そ》れて、矢張り今日のような結末に陥った。その時は、疑もなく、真木が彼女の真意を曲解したという点があったので、ゆき子は和解後も、心の確執を消しかねていた。
 丁度、×町に行く約束があったので、連立っては出かけはしても、彼等は何処となくよそよそしい所があるように、各自、離れ離れな会話の中心に入っていた。
 ところが、もう帰ろうとする間際になって、母が風呂に入って暖まって行ったらどうかと云い出した。夕飯前父が入ったきり、誰も入りてがないから、綺麗だし熱いだろうというのである。
「私は面倒だから、またこの次にさせて戴くわ。――貴方はどうなさるの?」
 ゆき子は、真木に訊いた。

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