気なんかしないじゃあありませんの」
 ゆき子は、始めはとろとろと堤に滲み出した河水が、だんだんと不可抗の力で量と速力を増して来るような気持になった。
「――何の用なの?」
「用じゃあないけど……昨日から私達は碌にほんとの話をしないじゃあないの?」
「そう改ってしようたって出来るもんじゃあない。機勢《はずみ》が来なければ――。併し」
 真木は、真正面にゆき子を見、戯談でない声で云った。
「用がないなら静にしていてくれない? 僕は、休中に遣ってしまいたいものが沢山あるんだから、ね。平常は、忙しくて暇のないのは、貴女も知っているだろう……」
 全く、真木が、専門に関して書類を纏めているのは事実であった。勿論ゆき子は、それを知っていた。けれども、今の場合、彼女には、その「専門」の権威で圧せられるのは辛棒が出来なかった。彼女の衷心には、殆ど意識の陰で、自分の仕事を顧みさせられる不快がある。ゆき子は、ぐっと心が意地悪くなるのを感じた。
「用がなけりゃあ話もされなくてはおしまいね!」
 彼女は、毒針と知りつつそれを虫に刺し込むような残酷さでちらりと良人の方を見た。
「……どうしたのだ。そんな調子でも
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