れに今度は、山岸の伯母さんが死んだんで、温泉どころではなかったしね」
 着物を着換え、髪にブラッシをかけ、先ずゆっくりと、胡坐《あぐら》をかいた彼と向い合うと、流石にゆき子は、心の安まるのを感じた。茶を入れ、×県名物の菓子を摘みながら、真木は、いろいろ、旅の亢奮の抜け切らない口調で、あちらの様子を話した。
「皆が、奥さんは何故来なさらんかって訊くんで、一々説明に困ってしまった。まさか、来たくないそうです、とも云えないしね」彼は笑った。そして、久し振りの座敷を懐しむように、あちこちと目を遣った。
「ところで――×町は、どうだったね。うまく行きましたか?」
 ゆき子は、良人の眼の下で、曖昧に、
「それほどでもなかったわ」
と云って苦笑した。
 これが若し、先刻までの心持だったら、彼女はきっと一言の下に頭を振って、
「駄目よ!」
と否定しつくしたであろう。そして、
「ほんとに、うち[#「うち」に傍点]はうち[#「うち」に傍点]だわね」
と、感歎したに違いないのである。が、今、彼女は、世辞にもそういう自由な表現は出来なかった。持っていた感情の強さや激しさは皆心の奥深く沈み込んで、良人が受け得る
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