子は、良人の眼を一目見ると、あらゆる歓びのくず折れる思いがした。
真木は、彼女の方にちらりと物懶《ものう》い一瞥を投げたぎり、差し延した両手に注意する気振りもない。日にやけ、汗じみ、面倒くさそうに帽子をかなぐり脱ぐと、彼は、
「ああ、あ。――只今」
と、どっかり式台に背を向けてしまったのである。
「――」瞬間、激しく胸にこみ上げて来た悲しさを堪えると、やがてゆき子は、涙と一緒に大声で自分を嘲笑したいような気分になった。
「昨夜から、あんなにも待ち、あんなにも思い焦れていたのは、こんなものだったのか?」
薔薇色の愛らしい世界は、しおらしく有頂天だった彼女を包んで、嘘より淡く消えてしまった。
苦々しい失望と詰らなさとが、これほどの感動を認めるだけの情緒すら持ち合わせないらしい真木に対して、激しい勢で湧上って来たのである。――が、ゆき子は辛うじて自制した。
長い旅行をし、汽車が混んで或いは昨夜一睡もしなかったかも知れない彼に、第一そんな気分を持てると思ったのが間違いであったのだ。――
彼女は、やっと静かな声で、
「お帰り遊ばせ、どうだって?」
と云った。先刻までの気持に比べれば、何
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