のである。
 それが、今、ここに坐ると、ゆき子は、極くなみなみの静けさのみを感じた。先ず、ほっとする。そして、机の上に頬杖を突き、濃い庭の闇からぼんやりと浮上っている紫陽花の若芽を見守っているうち、心は仕事に集結するどころか却って模糊として来る。そして、その放心の奥から次第に真木の存在が、はっきり俤《おもかげ》に立って来るのである。
 特別、彼が恋しいのではない。また慕わしさに気もそぞろになるというのでもない。併し、日中は、まるで見えない腕で確かりと抱き竦めたように、直面《ひためん》に、唯、彼女と彼等との交渉ほか意識に休ませない周囲の状況が、自らほんとに独りになると、彼女に良人を思い偲ばせるのであろうか。
 香の煙が立昇り、見えない空気にゆらぐように、「彼」に心が漂い寄ると、暫く、ゆき子は、云い難い親密さと、寂しさとを同時に感じた。
 彼方の黒い植込みからは、チラチラと陽気な燈火が洩れる。「あの、面白そうな笑声! けれども、自分は、ここで、独りで、始めて、感情の全部を恢復し得るのだ。」――全く、家中の者は、悲しいほど、彼女ひとりにたんのう[#「たんのう」に傍点]してくれた。誰も、彼女と
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