木に、一種の暗い直覚を与えていた。不愉快などという単純な言葉の約束以上の感じが、寿賀子と真木との間には潜在していたのである。
 ゆき子は、決してそれを知らないではなかった。
 が、今、あらわに、不同意の色を示されると、彼女は、それをそのままには肯いかねた。それほど「×町へ行ったらばこそ!」という希望は彼女にとって清新な輝かしいものだったのである。
 ゆき子は、暫く黙って、良人が考をまとめるのを待った。後、
「いけなくって?」
と訊き返した。彼女の声と眼差しとには、何か「いけない」とはいわせない力が籠っている。
 真木は、
「若し貴女が考えて見て、その方がいいと思ったら、勿論そうした方がいいだろう」と云った。
「それで、ここはどうするつもり、矢張り依田君に来て貰う?」
 彼の調子は、クライシスを通り過ぎた平穏さに還って来た。ゆき子も、自ら和らがずにはいられなかった。
「それで好かないでしょうか。どうせ二人行くにしてもそうするつもりだったのですものね。――郵便や何かは、朝×町へ帰る時持って来て貰えばいいわ」
「ふむ――じゃあ、まあ、兎に角そうして御覧。若しそれでうまく行けば結構だ」
「ほんとにそうよ! 何といっても私には生れた処ですものね、きっといい工合だと思うわ、そうお思いにならなくって?」
「そうあるべき筈だね。――」真木は、疑わしそうに云った。「が、とにかく一人で行くと定めていたってしようがないから、一寸×町へ行って都合を伺ってきたらいいだろう――僕は父親へ手紙を書いてしまうから……」
「そう?」ゆき子は、すぐ立ち上って「それじゃあ、すまないけれど、お父うさまに、訳を云ってあげて頂戴ね。そう出来れば、私ほんとに嬉しいわ」
 ゆき子は、いそいそとして×町へ出かけて行った。
 そして、まだ電気の来ない、夕暮のざわめきの通う小部屋で、母に、自分の世話になりたいことと、夜だけ書生に来て貰いたいこととを頼んだ。
 寿賀子は、殆ど予想以上に欣《よろこ》んでそのことに賛成した。
「結構だとも! いつからでもいらっしゃい。――だが、まあよく来る気になったものね」
 彼女は、夕闇の中で、裁ち物を片よせながら、嬉しさから罪のない陽気で、娘を揶揄《からか》った。
「それで……どの位行っているの?」
「大抵十日位でしょう。学校が直き始るから、どうせ長くは行っていられないのよ」
「短くてお仕合せ!」
「いやなおかあさま!」
 二人は声を合せて笑った。
「とにかく――ほんとにおいで。歓迎してあげるよ。久し振りだものねえ……いつだったか、一晩泊って行ったきりだったろう?」
 住居が近所なので、顔を合せる機会はあっても、共に心置きなく寝起する楽しさを久しく取上げられている寿賀子は、気の毒なほど悦んだ。彼女は、思わずゆき子が、溢れ出す愛を感じたほど、暖い心と眼で、迎えてくれたのである。
 ゆき子は、万事が上々吉の喜びで、飛ぶようにして、家へ帰って来た。
「大丈夫! きっとうまく行くことよ。随分かあさまも嬉しがっていらしったわ。有難う、ほんとに。若しうまく行けば、お礼なんか云い足りないわね」

 真木の立ったのは、麗らかな四月の第一日であった。爽やかな白っぽい朝日が、やや取散らした八畳の座敷に微風と共に流れ込んだ。ゆき子は、軽装で沓脱石の上に立った真木に頬を差出しながら、
「行っていらっしゃいまし。どっちもおうち[#「おうち」に傍点]へ帰るのね」
と云って笑った。
 数刻の後、彼女は家を片づけ戸締りをし、極く必要なものだけを小さいスーツ・ケースに入れて、晴々と希望に満ちて×町へ来たのである。

        二

 ×町での歓待は、何だかゆき子に、漠然と極り悪さを感じさせたほど、深甚なものであった。
 七つになる妹のみよ子などは、朝幼稚園に出て行がけに、定って靴を穿きながら、
「ゆきちゃま、今日もいるの?」
と姉に問《たず》ねた。
「ええいることよ、何故?」
 ゆき子は、式台の上で蹲《うずくま》り、笑いながら、妹の小さい肩や手の運動を眺める。
「幼稚園から帰るまで帰らないでいらっしゃる?」
「大丈夫! きっと帰らなくてよ」
「いるのよ! ねえ、ねえ」
となおなお念を押しながら、書生に伴をされ、おかっぱの頭で振り返り振り返り植込みを曲って行く姿は、ゆき子に、訳の分らない涙さえ浮ばせた。
 献立には、特に彼女の好きなものが取入れられた。風呂さえ毎晩、ゆき子のために、火を入れられた。そして、影の形に添うように、母は、飽きない話の無尽蔵で、娘を賑わした。ゆき子はこの時になって、始めて、家中の者が、どれほど自分を愛し、一緒に暮すのを悦んでくれるか思い知ったといっても過言ではないのである。
 彼女は、またもとの自分の部屋である六畳に机を据えた。結婚するまで六七年の間、あ
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