流石に彼女はそれを考えなく軽々と口には出し兼ねた。真木は、彼女が行くと定めたものと思っている。
彼は、彼女ほど、言葉に出して大騒ぎはしないが、それを楽しみに思い、種々空想を描いているだろうことは、ゆき子にも充分察せられた。それを、むざむざと、
「私は参りません」
と云うには、ゆき子は余り良人の心持を知り過ぎていた。彼が、必ず最後には、
「それなら、そうしたら好いだろう」
と云うに違いないから、彼女は、猶それを云わせるに堪えないような心持がしたのである。けれども、或る日、国元へ手紙を書くと云って真木がペンを取あげ、
「それでは、貴女も行くと云ってやっていいね」
と念を押した時、ゆき子は、とっさの決心で、
「さあ……」
と云った。そして、雑誌を読んでいた隣室から、彼の傍に来て坐った。
「――若し、私がおやめにしたら、貴方もおやめになさって?」
ゆき子は、良人の顔を見ながら、静に訊いた。
「止めようというの?」
「今度だけは、そうして見たらどうかと思うの。――でも、若し、貴方までお止めになさるなら……」
「僕までやめるには及ぶまいが――どうしたんだね、急に」
ゆき子は、彼女が理由とするところを説明した。
「まだ、いい塩梅にお父さまには云ってあげてないでしょう? だから貴方さえそうしてもいいとお思いになれば、私は遺って見たいわ。……一旦行くと云って、ほんとに悪いけれど」
「そんなことは拘わないが……」思いがけない変更で、稍々《やや》不愉快そうな顔をしていた真木は、ここまで来ると、不意に、苦笑に似た笑を口辺に浮べた。
「それにしてもここに一人でいられるかね」
良人の眼を見、ゆき子は、我知らず笑を移された。
真木の質問には、特殊な諷刺が籠っていたのだ。
彼等の家は、屋根に埋った狭い谷を距てて、小石川台の木立を眺める町なかにあった。周囲には沢山の家があり、木戸一つ開ければ隣家の庭まで手が届いた。けれども、その頃、余り遠くない市外に頻々として、強盗や殺傷事件が続出したため、昼間独りきりになるゆき子は気味を悪がり、やかましく真木に強請《せが》んで、つい先頃水口の錠を換えて貰ったりしたばかりなのである。
「到底一人でなんかいられやしませんわ。――×町へ行ったらどうかと思うの……」
「うむ……」
今度、明に躊躇の色が、真木の額に現れた。それを見ると予期したことながら、ゆき子は胸の圧せられる心持がした。
×町というのは、彼女の生家の別名である。緩くり歩いて、四十分とは掛らない同じ区内にあった。その家に、ゆき子は、普通結婚した娘が、いわゆる実家を懐しがるのとは、また一種趣の異った心の絆を持っていたのである。
ただ、その庭の面影や部屋部屋の印象が、やや詠歎的に幼年時代、処女時代を思い出させるばかりではない。一度そこを追想すると、ゆき子の胸には、激しく、心も身をも引っくるめてそこで経験した「快適」への渇望が湧上った。
「何処でも得られる心持よさや、親切や、安らかさなどというものではない。何かまるで特殊なもの、あそこにほかないもの、それに触れさえすれば、自分の心は溌剌として、最上の活動を始める、その快よさ」が、磁石のように存在を知らせ、誘いよせるのである。
この、微妙な心理的の魅力が、両親や弟妹との、断ち難い血縁によるのは明であった。が、ゆき子の場合では、特に母親の感情が、重大な役割を持っていた。
娘に、殆どデスペレートな愛と希望とをかけている寿賀子は、結婚後も、ゆき子を世間並に良人の手にだけ委ねては置かなかった。彼女が、よく何かにつけて人にも、
「ほんとに、よそのお母さんは羨しいね。どうしてああ安心してしまえるんだろう。私なんかは、到底、嫁に遣ったからって、それなり構わずに安心してなんかはいられないがね。……却って、苦労になるようなものだ……」
と述懐する通り、全く、寿賀子は娘を手離さなければならないことに激しい不安を感じているのだ。
「絶間ない自分の感化や、注意や指導は、もう何といっても、直接には及ぼさなくなる。――それで、ゆき子が真直に、愛すべき発達をなし遂げられるだろうか?」
従って、彼女が言葉から、素振りから、ゆき子に与える暗示が如何なるものだかは、ほぼ想像し得るものであろう。
この関係を、他の一面から見ると、そこには明に、真木に対する不信任が認められずにはいない。
率直にいってしまえば、寿賀子にとって、ゆき子と真木の可愛さなどは、到底比較にもならないものである。ゆき子が、良人として真木を信ずるだけ、どうしても寿賀子にはその男が信頼されない。――真木は、彼女が自らの選択で、ゆき子のために見出してやった「婿」ではなかった。――彼等は自由に互に愛し合い、全く相互の意志だけで結婚したのであった。
こんな、感情の暗流は、当然真
前へ
次へ
全16ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング