らゆる場合の伴侶であった古びた狭い前栽が、また、閑寂な陽春の美に充ち満ちて目の前に還って来た。
土庇に遮られて柔かい日光を受け、朝夕は、しめった土の匂を感じ、嘗て知ったあの落付と集注とは疑いもなく再び彼女の心に甦って来ると思われたのである。
昼間は、どうしても、弟や妹や母が、彼女を独りにさせてはおかない。快活な父親を芯にして、まるで咲きこぼれたような夕餐がすむと、ゆき子は、絡みつくような多くの視線から、強いて自分を引離して、書斎に帰って来た。
そして、すがすがしい夜気の中に燈火をてらし、ひやりと冷たい机の前に坐り、さて、心を鎮めて紙に向う。――が、一夜二夜経つうちに、ゆき子は思いも懸けない新しい事実を発見した。
それは、この六畳さえも、今はもうただ、静寂な一室、というだけの影響しか、自分の心に持っていないということなのである。
先、ゆき子は、陽気な食堂や客間からここに引取って、一旦、静に光を吸う茶色の砂壁に囲まれさえすれば、もうそれだけで完全に、集注した心を取戻せた。暗い曲りくねった廊下と、低い襖に画られた一重こちらは、さながら、いつも見えない感激に満ちた霊魂の仕事場であったのである。
それが、今、ここに坐ると、ゆき子は、極くなみなみの静けさのみを感じた。先ず、ほっとする。そして、机の上に頬杖を突き、濃い庭の闇からぼんやりと浮上っている紫陽花の若芽を見守っているうち、心は仕事に集結するどころか却って模糊として来る。そして、その放心の奥から次第に真木の存在が、はっきり俤《おもかげ》に立って来るのである。
特別、彼が恋しいのではない。また慕わしさに気もそぞろになるというのでもない。併し、日中は、まるで見えない腕で確かりと抱き竦めたように、直面《ひためん》に、唯、彼女と彼等との交渉ほか意識に休ませない周囲の状況が、自らほんとに独りになると、彼女に良人を思い偲ばせるのであろうか。
香の煙が立昇り、見えない空気にゆらぐように、「彼」に心が漂い寄ると、暫く、ゆき子は、云い難い親密さと、寂しさとを同時に感じた。
彼方の黒い植込みからは、チラチラと陽気な燈火が洩れる。「あの、面白そうな笑声! けれども、自分は、ここで、独りで、始めて、感情の全部を恢復し得るのだ。」――全く、家中の者は、悲しいほど、彼女ひとりにたんのう[#「たんのう」に傍点]してくれた。誰も、彼女と共に真木の存在や気分を勘定には入れてくれない。若し、自分が、このまま一生居据ると云っても、恐らく誰一人それを真木のために愕きかなしむ者はなかろうと思うほどの皆の雰囲気が、却てゆき子をしんから悲しくするのである。
床に就くまで部屋に籠っても、ゆき子は仕事に関して、一行の纏った収穫も得なかった。
真木から来た絵葉書をまた丁寧に繰返して見なおしたり、思うともなく×県の、倉座敷で、蘭や夾竹桃の生えた家を思い出したり……、彼女の目の前には、何か云って笑いながら頭を振る良人の顔つきが、身動きをすると胸の痛むほど鮮に甦って来る。
ゆき子は、余り心がさしせまると、そっと雨戸をあけてとめどもなく、月のない庭を歩き廻った。
大きな青桐のかげ、耳を澄すと微に葉ずれの音のする椿や槇のこんもりした繁み。――雨戸を閉め切った大きな家は、星の燦く空の下で、悲しく眠り傾いたように見えた。
――丁度、×町へ来てから五日目の朝であった。
ゆき子は、珍らしくその日は起き抜けから創作欲の亢奮を覚えていた。前夜、晩くまで読み耽った或る科学者の伝記が、持病になりかけた彼女の感傷を追払った。二三日来とかく頭を曇らしていた陰鬱は去り、朗らかな愛と勇気とが、曇のない朝の光線と共に、爽やかに身内に感じられるのである。
健康な熟睡から醒め、体を洗い、彼女の肉体の潔らかさと共に魂の貞潔まで感じるような心持がした。息は深く、四肢に人間らしい力が漲り、自分の精神によってこの世に産れ出ようとする愛すべき無形の何ものかに、全心が本能の慕わしさで牽きよせられる気がするのである。
ゆき子は、早めに朝飯を終り、出勤する父親を見送ると、そのまま自分の部屋に引取った。そして、下見窓から流れ入るほどよい朝かぜにかこまれ机に向うと、彼女は、嬉しさで心がときめきを感ぜずにはいられなかった。
「これでこそ来た甲斐がある!」
ほんとにこの間じゅうのようでは、来ない方がよかったとさえいえる状態であった、あれほど固執して×町へ来た価値が何処にある。が「今日こそは!」ゆき子は、若い雌馬が勇み立って、その鬣《たてがみ》を振るように、肩と頭とを揺りあげた。そして、改めて坐りなおし、気を鎮め今まで書き溜めた頁を読みかえしているうちに、眼の前には、これから描くべき情景《シーン》が、ありありと見え始めた。
そこは、日本ではなかった。鮮やかな楡の
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