た。
「まだ分らないんだから、そんなに騒がないのね、いい子だから。――帰ったって、いいじゃあないの、またみよちゃんが来れば『今日は』って――」
ゆき子は強いて笑顔になった。
「そうだそうだ、兄さんと行って、沢山御馳走をしてお貰い。それにしても、御飯を食べない子なんかは厭だとおっしゃるぞ」
父も傍から、面白半分にゆき子を助けた。稍々陰気になった一座の気分は、それやこれやで、何時とはなく転換された。
偶然か、或は意識してか、平常よりは一層気軽な父と、釣込まれた妹との懸け合いで、とにかく晩餐は、笑のうちに終ったのである。
併し、ゆき子は、その時ばかりは×町へ来て始めて味のない食事をした。
団欒のうちを、そっと部屋に引取って来ると、彼女は泣き出したいほど△町の家の恋しさに攻められた。うるさいと思ったり、つまらないと感じたりした自分達二人きりの家、その家の日々の暮しが、まるで、魂を吸い取るように懐かしく思い出されて来たのである。
あれほど希望に燃え、意気込んで来たことを思えば×町での万事は失敗だと云える気がした。
第一、仕事は相変らずちっとも出来ない、より深い憂鬱を感じる。――母と、感情の縺《もつ》れを起したことだけでも、全く予期には反していた。母も、勿論そうしようとは思わなかっただろう。自分とても、意企して惹起したことではない。けれども事実は、被い隠せない。真木が、彼の表情のかげに漠然と漂わせた危惧がすっかりそのまま、象《かたち》を具えて現れたと云っても好いのである。
然しゆき子は、自分の計画が失敗したことを、些も良人の前に自尊心を傷けられることとして、愧《はじ》る気にはなれなかった。意地を張って、何とか、彼とかよかった点を見付け出して説明しようとする気もなかった。しんから折れて、自分の心が安らかに棲むべき処は、矢張り「私共の家」ほかなかったことを、承認せずにはいられない心持がするのである。
自分が頑張って良人に譲歩をさせたことが、ゆき子には、今になって苦しいような心持がした。
自分達の、慎ましい簡素な日常を、更に新しい愛で思い返すと、女らしい献身《デボーション》がゆき子の渾心を熱くした。つぶった眼の奥では、ありありと、何故か冬の夜らしく閉め切った八畳の部屋が浮上った。明るい燈火、こもった空気の暖かさ。そこに、机に肱をかけてこちらを向いている良人と向い合って、何か云い云い笑っている自分の姿が、あらゆる楽しさを聚めたように、輝く卵色の一点に、小さくはっきりと見えるのである。
「…………」
ゆき子は、身ぶるいを感じた。ほんとに、良人の帰るのが待たれた。これほど、△町での生活をいとしく思ったことは今までただの一度でもあっただろうか。
翌朝、ゆき子は、例にない時刻に床を離れた。
そして、真先に顔を合わせた者に、
「電報は来なかって?」
と訊いた。が、返事は失望であった。
顔を洗いながらも、あまり早くて自分の一人の食堂で新聞を拡げても、ゆき子には、そればかりが気にかかった。
若し、出席の必要なし、とでも云って来たらどうだろう! 昨夜から、真剣に良人の帰京を待ち侘びるゆき子は、思っただけでも慄《ぞ》っとした。
廊下に通じる扉が開く度に、ゆき子は恥しいほど、はっとして、何をしていても、素早く頭を持上げた。ただ、待っているのは猶辛いので、おちおち味も分らず、とにかく、皆と、朝の紅茶を啜っていると、いきなり、書生がひどい音をさせて、入って来た。手には、電報らしいものがある。
「来たの?」
彼女は、手を延してそれを受取ると、
「有難う」
と云う間もあらせず封を切った。おきまりの読み難い片仮名ながら、はっきりと、
「アスアサ九ジツク」
と書いてある。――
ゆき子は、我知らず次第に微笑み赧くなりながら、激しい鼓動と共に、深い溜息をついた。
「ね、おかあさま」
やがてゆき子は、強いて溢れ出るうれしさを抑えつけた明るい顔で、母に振向いた。一夜過ぎた今朝、彼女は信じられないほど、「よい母」になっていた。まるで、反動のように優しく落付いて、同時に、
「さあ、大変! 旦那様のお帰りだ」
とゆき子を揶揄《からか》ったほどの快活さまで取返していたのである。
母の好機嫌で、一層の歓びを感じながら、ゆき子は問ねた。
「おかあさま、真木が真直にこちらへ来るとお思いになって? それとも△町へ行くでしょうか?」
「分らないね。――電車の都合は△町のほうがいいんだろう?」
「それはそうよ。だけれどもあのひとは鍵を持っていないんだから、若し、あちらへ行ったら入れないわ」
「馬鹿な人!」母は笑った。「それなら、一旦こちらへ来てから、△町へ帰るに定まってるじゃあないか、確かりおしよ!」
ゆき子も、おかしそうに笑った。
「でも、若しか、私が帰って行
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