っていると思いやしなくって?」
「そう思うなら、お帰りな。――いずれ、××大学の方が済むのは、二時か三時頃なんだろうからそれまでに、ゆっくりあわてずにきめたらいいじゃあないか、――どれ」
母は時計を見て立上った。
「もう直き先生がいらっしゃるから、一寸習っておかなければ……」
彼女の習字の先生が、その日は十時から来ることになっていたのである。
「二階へ来るかい?」
「さあ……」ゆき子は、ぼんやりと母について立上った。
「どっちみち、お昼をすまして行くだろう?」
「――分らないわ私」
昼を済して行ったらと云われると、ゆき子は、急に、真木の会議が十二時頃までに仕舞いそうに思われて来た。
若し、正午に終るとすれば、確に荷物を停車場へ一時預けにしている彼は、それを取って、一番順路である△町へ来るだろう。一時過だし、電報は打ってあることだと思って戻った彼が、自分の家の前で立往生するのを想うと、ゆき子は放っておけない心持がした。どうしたらいいだろう? 考えながら、ゆき子は階子口に立ったまま、見るともなく、重そうに階子を昇って行く母の後姿を下から眺めた。段々上り切って、角を廻って見えなくなりかけると、彼女はあわてて、
「おかあさま」
と大きな声で呼んだ。彼女は、帰ろうと、とっさに思ったのであった。が、
「なんだえ」
と云って母の顔が覗くと、彼女は、また言葉につまった。そして、間の悪い、ぼんやりした笑顔を仰向けて、首を振り振り何でもないという合図をした。
そこに、ゆき子は、やや暫く、頭に指を組合わせた両手を載せたまま突立っていた。それから、母の居間に行って鏡を見ながら、潰れた髪の工合をなおすと、また食堂に戻って行った。廊下へ出、客間へ行き……ゆき子は、幾度、家中をぐるぐる廻っただろう!
十一時になると、到頭、彼女は我慢が出来なくなってしまった。二階には、もう先生が見えたらしい。
彼女は、思い切って女中に俥を呼ぶことを頼んだ。そして大いそぎで、散かった物をまとめ、着物を換え、愕き笑っている女中に、母への伝言を託すと、飛び出すように×町の門を出た。
俥は不思議なほど、のろく思われる。人通りの少ない屋敷町の垣根から差し出た白木蓮の梢や新芽を吹いた樫の下枝が、天気のよい碧空の下で、これはまた美しく燦めいて眺められる。――
四
ゆき子は、まるで嬉しさで輝き透き徹る歓びの玉のようになって、今にも現れる良人を待っていた。小さい家は、すっかり開け放され、到る所の隅々に踊る日光が迎え入れられた。彼女は、久し振りに自分の手で触られ、忽ち活々した弾力と愛らしさとを恢復したように見える部屋部屋に、それぞれ綺麗な花を飾りつけた。庭を掃き、水を撒き。小さい虹を抱いて転げ落ちる檜葉の露を見つめながら、ゆき子は、いつか、激しい緊張の合間合間に来る、奇妙な放心に捕えられていた。――
ところへ、思いもかけず格子の開く音がした。ゆき子は、今まで自分が待っていたのを忘れたように、はっとした。身の竦まる思いがした。と、同時に素早く体を翻して、足音も立てずに玄関まで駆けつけた。彼女は、胸をどきどきさせ、笑い、口を開き、今にもそこが開いたら、跳びかかろうとする小猫のように、障子の際に蹲ったのである。
たたきの上で、向を換える音がする。――狭い式台の上に、何かおいた気勢がする。――ゆき子は、心臓が飛び出しそうな気持がした。そして、一層体を引緊めた途端。前の障子は、いかにも曲のない、
「只今」
と云う声と一緒にさらりと引開けられた。息を窒め、覚えず膝をついて立上ったゆき子は、良人の眼を一目見ると、あらゆる歓びのくず折れる思いがした。
真木は、彼女の方にちらりと物懶《ものう》い一瞥を投げたぎり、差し延した両手に注意する気振りもない。日にやけ、汗じみ、面倒くさそうに帽子をかなぐり脱ぐと、彼は、
「ああ、あ。――只今」
と、どっかり式台に背を向けてしまったのである。
「――」瞬間、激しく胸にこみ上げて来た悲しさを堪えると、やがてゆき子は、涙と一緒に大声で自分を嘲笑したいような気分になった。
「昨夜から、あんなにも待ち、あんなにも思い焦れていたのは、こんなものだったのか?」
薔薇色の愛らしい世界は、しおらしく有頂天だった彼女を包んで、嘘より淡く消えてしまった。
苦々しい失望と詰らなさとが、これほどの感動を認めるだけの情緒すら持ち合わせないらしい真木に対して、激しい勢で湧上って来たのである。――が、ゆき子は辛うじて自制した。
長い旅行をし、汽車が混んで或いは昨夜一睡もしなかったかも知れない彼に、第一そんな気分を持てると思ったのが間違いであったのだ。――
彼女は、やっと静かな声で、
「お帰り遊ばせ、どうだって?」
と云った。先刻までの気持に比べれば、何
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