裏を返した。文句は肉筆で書かれているのみならず、「是非とも」の四字には、特に朱で二重圏点さえ打ってある。
 ゆき子は暫く考えた。
「ただ、留守です、ぎりでいいかしらん……」
 彼女の頭には、閃くように、電報を打とうという考がうかんだ。
「若し、帰った方がいいと思えば、便宜の汽車を見出して間に合うように戻るだろう。若し、必要がなかったら――勿論、予定の十日をいて来るだろう……」が、後の場合は、彼女に十が一も無さそうに思われた。
 ゆき子は、やがて葉書を持って母の居間へ行った。彼女は、裁つもりものをしている母の傍で、相談をしいしい電文を作ろうと思ったのである。
 六畳の、平床に花鳥の淡彩をかけた部屋の中は、静に落付いている。母は、懸け鏡に綺麗な耳の辺から髷の辺を照返しながら、ひっそりと地味な絹物をいじっていた。ゆき子は、入って行きながら、
「おかあさま……」
と呼んだ。
 母は、やや沈んだ、併しすっかり平静に戻った顔を振向けた。
「なあに?」
「あのね、今、こんなものが来たのよ」拡がった布をよけて、傍に坐りながら、ゆき子は葉書を見せた。「云ってやらなければいけないわね。どう?」
「そうさね、何か、相当な用らしいね」
「ただ、いませんだけでは済まないわね? 私電報を打とうかと思うの? その方がいいでしょう?」
「何て?」母は、再び布地に物指しをあて始めた。
「何てって……」ゆき子は、母の無感興を感じ、困った気持になった。
「こうこう云って来たが、帰るかって訊いてやるんじゃあないの?」
「――いいだろう……」
「じゃあそうするわね。……何て書いたら好いかしらん」
 ゆき子は、針箱の傍に頼信紙を展べ、その上に窮屈そうに屈みながら、頻りに指を折って、要領のよい電文を拵えようとした。けれども、彼女の心を冷したことは、母が一向親身になって、相談に乗ってくれないことである。ゆき子が、一生懸命に、
「ね、おかあさま、これですっかり意味が通じるでしょうか?」
と問ねても、「もっと好い云い方を教えて下さらない?」と頼んでも、彼女は、糸じるしをつけながら、ただ義務的に、「そうだね」とか、「さあ……」とか呟くばかりなのである。そればかりか、余り幾度も、娘が同じ文句を繰返し繰返し考えているのを見ると、彼女は殆ど怒ったような調子でつぶやいた。
「子供にやるんじゃあなし、いい加減で好いじゃあないか。そうそう甘やかしてどうするつもりなんだろう!」
 ゆき子は、母の不快に圧せられた。彼女は、云いようない淋しい気持がしたけれども、この上再び、不愉快な亢奮を醸すことを危ぶんだ。ゆき子は、言葉少く電文を纏め書生に頼んで、最寄りの局から返信付で、×県の真木に送ったのであった。
 寿賀子の不機嫌は、決してそれ限りで消えたのではなかった。
 父が帰宅し、風呂がすみ、夕飯が始って皆が卓子に就くと間もなく、寿賀子は、誰に云うともなく、正面の席から、
「明日の朝、真木さんが帰って来るんですってさ」
と云った。言葉は、何でもない。が、そのうちには、今まで、賑やかにわやわやしていた口々の雑談を、ぴったり沈黙させるような一種の調子が籠っていた。
 父の隣席に坐り、箸を採っていたゆき子は、思わず胸が強るような刺戟を感じた。彼女は見えない力に押されて、
「まだわかりゃあしないのよ!」
と、力強く否定した。
「どうしたんだね」
 傍から、父が穏やかに振返った。
 ゆき子は、沈んだ短い言葉で、午後「速達」の来たことや真木に電報を打ったこと等を説明した。が、彼方側から、凝っと自分を見守っている小さい者たちの瞳が、云い難い苦しさを与えた。彼等は、母の語調から、何かただならぬ気勢《けはい》を感じたのだ。そして驚きと知りたさとで、箸を持っている手を止め、眼を瞠《みは》って、姉の素振りに注目しているのである。
「そうか、必要なら帰って来るだろう、まあいいさ」
 訳が分ると、父は淡白に葡萄酒の杯を挙げた。けれども、弟妹、とくにみよ子は、決してそうさっぱりとはすませてくれなかった。
 姉の云うことに耳を欹《そばだ》てていた彼女は、やがて母と姉とを等分に見ながら、疑しそうに、
「ゆきちゃま、帰るの?」
と質問した。そして、傍から、ゆき子が何と云う間もなく、
「ああ、お帰りになるのよ」
と母の返答を受けると、いきなり貫くような大声で、
「ゆきちゃま帰っちゃいやあ」と叫んだ。そして、箸も何も持ったまま姉の傍に馳けつけて、半分体を凭《よ》りかからせながら、手をぐいぐい引張って、「帰らないのよう、よ、ゆきちゃま帰らないのよ」と、強請み始めた。
 半分、母の顔色を眺めているような妹の態度から、ゆき子は、純粋に、その引止めを嬉しく感じ得なかった。彼女は、力のある小さい手を押えながら、
「静にするのよ、静にして頂戴」
と云っ
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