わ。だけれども、そうじゃあないんですもの、あの人だって、随分心配しているんですもの。――また」ゆき子は、涙ぐんだ。「若し、私の仕事なんかどうにでもなれ、と思うような人なら、始めっから結婚なんか、しやしない筈じゃあないの」
「――それは、真木さんは、お前なんかとは比べものにならないよ」
「まあ、どうして?」ゆき子は、愕いて母を見た。
「どうしてって――あの人はお前より、役者が上だよ」
「ごまかしているとおっしゃるの?」
ゆき子は、たとい相手は母ながらも、必死な力が衝上げて来るのを感じた。
「まさか、それほどではあるまいが、少くとも、お前をすっかり、把握しているのさ」
「お互に影響し合うのは、勿論あたりまえのことじゃあないの?」
「お互なら云うことはないさね。けれども、私の目が間違っているかは知れないが、あのひとは、事実お前を支配しているよ。上手にお前だけを反省させておくね」
「…………」
ゆき子は、今更ながら母の真木に対する隔意を感じずにはいられなかった。彼女が自分の為を思い、仕事の纏まらないのを心から憂いていてくれることは疑もないのだ。けれども、その気持を言葉に出して云おうとすると、或は、総括した考えとしての筋をたてるとなると、彼女は、先ず真木という名に当って行かずにはいられないのだ。ゆき子は、母の衷心は明に察せられた。然し、真木に無節操な批評が加えられるとなると、ついに我慢がならなかった。彼女は、殆ど本能的な抗弁の衝動に駆られるのである。麗らかな庭の春景色に比べては、余り凄じい暫くの沈黙の後、ゆき子は、辛うじてこれだけを云った。
「おかあさまが、私を愛し、心配して下さるのは、ほんとに有難く思いますわ、ほんとに! だけれども、その気分の反動でだけ、真木を批評しては戴きたくないわ。私も何か云わずにはいられなくなるんですもの。それは、真木は偉大な人格者でもないし、素晴らしい天才でもないけれども、少くとも、自分の愛する者に対しての真心位は持っている人です」
「――お前は、そう思っているのさ」
「――夢中になっているとおっしゃるかもしれないけれども、とにかく、私は、おかあさまよりは真木がどういう人間だか知っていることだけは信じますわ」ゆき子は、心が燃え上るのを感じた。
「おかあさまは、御自分で選んで下さった人のことを、若しこういう場合になったら、そういうふうにおっしゃること?」
寿賀子は、全く、この言葉に打れたように見えた。
「真木さんのことになると、お前は気違いだよ。どうせ……どうせ」急に声が力なくふるえた。「自分で好きこのんで結婚なんかして、それっきり仕事も出来ないような女なら……どうせ、それだけに生れついているんだから……」
唇の色が変り、涙が流れ出すのを見ると、ゆき子は、堪らない気持になった。
「おかあさま!」
「いいよ、いいよ、放っておいておくれ」
寿賀子は娘の手をよけて横を向きながら袂を顔にあてた。
「どうせ……私が親馬鹿で……わたしが、ばかだったんだろうよ!」
激しい歔欷に見かねてゆき子は母の肩を抱いた。
「ね、おかあさま、聞いて頂戴。おかあさまはね、私が、一生懸命に仕事をする気にもならないで、のんべんだらりと真木にこびり付いているとお思いになるから、そんな風にお思いになるのよ。私だって決して平気じゃあなくってよ。どうにかしてやりたいと思っているんじゃないの」
ゆき子は、涙がせき上るのを感じた。
「私だって、仕事も出来ずに生きていようとは思わなくってよ。ね。おかあさま、信じて頂戴よ。何か遣れる人間だということを信じて頂戴よ。ね、おかあさまに、絶望されるのは、一番堪らないわ、全く……」
自分も涙に濡れながら、ゆき子は、そっと湿った後れ毛を母の頬から掻きのけた。
三
××大学から、真木宛の「速達」が廻送されて来たのは、丁度それから間もない午後のことであった。
亢奮の後の疲労と深い憂愁とで、ゆき子は、ぼんやり畳廊下の柱に凭《もた》れながら、考えに沈んでいた。
彼方では小さい妹が、首を振り振り力を入れてオルガンを踏みながら、あどけない歌を唱っている。素絹《すずし》のような少女の声と、楽器の単音が、傾いた金緑色の外景とともに、微かな寂寥を漂わせる。
彼女は、今更のように、複雑な人間の愛を思っていた。
そこへ、女中が来た。そして思いがけない「速達」が手渡しされたのであった。
葉書は、始め彼等の家の方へ配達されたのを、隣家の好意で、また×町まで廻されたのだそうだ。何か、新入学生資格詮衡のことに就て、委員である真木が、明朝十時から、是非とも出席を要する会議の通知なのである。
ゆき子は、その場合、特別な懐しさを感じながら、手にとって、表記の真木潤一という宛名をながめた。それから、また改めて
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