流石に彼女はそれを考えなく軽々と口には出し兼ねた。真木は、彼女が行くと定めたものと思っている。
 彼は、彼女ほど、言葉に出して大騒ぎはしないが、それを楽しみに思い、種々空想を描いているだろうことは、ゆき子にも充分察せられた。それを、むざむざと、
「私は参りません」
と云うには、ゆき子は余り良人の心持を知り過ぎていた。彼が、必ず最後には、
「それなら、そうしたら好いだろう」
と云うに違いないから、彼女は、猶それを云わせるに堪えないような心持がしたのである。けれども、或る日、国元へ手紙を書くと云って真木がペンを取あげ、
「それでは、貴女も行くと云ってやっていいね」
と念を押した時、ゆき子は、とっさの決心で、
「さあ……」
と云った。そして、雑誌を読んでいた隣室から、彼の傍に来て坐った。
「――若し、私がおやめにしたら、貴方もおやめになさって?」
 ゆき子は、良人の顔を見ながら、静に訊いた。
「止めようというの?」
「今度だけは、そうして見たらどうかと思うの。――でも、若し、貴方までお止めになさるなら……」
「僕までやめるには及ぶまいが――どうしたんだね、急に」
 ゆき子は、彼女が理由とするところを説明した。
「まだ、いい塩梅にお父さまには云ってあげてないでしょう? だから貴方さえそうしてもいいとお思いになれば、私は遺って見たいわ。……一旦行くと云って、ほんとに悪いけれど」
「そんなことは拘わないが……」思いがけない変更で、稍々《やや》不愉快そうな顔をしていた真木は、ここまで来ると、不意に、苦笑に似た笑を口辺に浮べた。
「それにしてもここに一人でいられるかね」
 良人の眼を見、ゆき子は、我知らず笑を移された。
 真木の質問には、特殊な諷刺が籠っていたのだ。
 彼等の家は、屋根に埋った狭い谷を距てて、小石川台の木立を眺める町なかにあった。周囲には沢山の家があり、木戸一つ開ければ隣家の庭まで手が届いた。けれども、その頃、余り遠くない市外に頻々として、強盗や殺傷事件が続出したため、昼間独りきりになるゆき子は気味を悪がり、やかましく真木に強請《せが》んで、つい先頃水口の錠を換えて貰ったりしたばかりなのである。
「到底一人でなんかいられやしませんわ。――×町へ行ったらどうかと思うの……」
「うむ……」
 今度、明に躊躇の色が、真木の額に現れた。それを見ると予期したことながら、ゆき子
前へ 次へ
全31ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング