は胸の圧せられる心持がした。
 ×町というのは、彼女の生家の別名である。緩くり歩いて、四十分とは掛らない同じ区内にあった。その家に、ゆき子は、普通結婚した娘が、いわゆる実家を懐しがるのとは、また一種趣の異った心の絆を持っていたのである。
 ただ、その庭の面影や部屋部屋の印象が、やや詠歎的に幼年時代、処女時代を思い出させるばかりではない。一度そこを追想すると、ゆき子の胸には、激しく、心も身をも引っくるめてそこで経験した「快適」への渇望が湧上った。
「何処でも得られる心持よさや、親切や、安らかさなどというものではない。何かまるで特殊なもの、あそこにほかないもの、それに触れさえすれば、自分の心は溌剌として、最上の活動を始める、その快よさ」が、磁石のように存在を知らせ、誘いよせるのである。
 この、微妙な心理的の魅力が、両親や弟妹との、断ち難い血縁によるのは明であった。が、ゆき子の場合では、特に母親の感情が、重大な役割を持っていた。
 娘に、殆どデスペレートな愛と希望とをかけている寿賀子は、結婚後も、ゆき子を世間並に良人の手にだけ委ねては置かなかった。彼女が、よく何かにつけて人にも、
「ほんとに、よそのお母さんは羨しいね。どうしてああ安心してしまえるんだろう。私なんかは、到底、嫁に遣ったからって、それなり構わずに安心してなんかはいられないがね。……却って、苦労になるようなものだ……」
と述懐する通り、全く、寿賀子は娘を手離さなければならないことに激しい不安を感じているのだ。
「絶間ない自分の感化や、注意や指導は、もう何といっても、直接には及ぼさなくなる。――それで、ゆき子が真直に、愛すべき発達をなし遂げられるだろうか?」
 従って、彼女が言葉から、素振りから、ゆき子に与える暗示が如何なるものだかは、ほぼ想像し得るものであろう。
 この関係を、他の一面から見ると、そこには明に、真木に対する不信任が認められずにはいない。
 率直にいってしまえば、寿賀子にとって、ゆき子と真木の可愛さなどは、到底比較にもならないものである。ゆき子が、良人として真木を信ずるだけ、どうしても寿賀子にはその男が信頼されない。――真木は、彼女が自らの選択で、ゆき子のために見出してやった「婿」ではなかった。――彼等は自由に互に愛し合い、全く相互の意志だけで結婚したのであった。
 こんな、感情の暗流は、当然真
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