のように白霧が立ち昇って来る景色などは、日本風な優婉さで、特別彼女の心に強い印象を遺していた。
まして、この度の帰省には、一つの楽しい空想が加っていた。
長年、都会と田舎とに別れ別れの生活をし、親しく老父を慰むる機会を持たなかった真木は、時候のよい今度、父を誘って、何処か閑静な温泉にでも行って、ゆっくり昔語りでもしたいと云っていたのである。
三月が終に近づき、旅行が迫ると、ゆき子は物珍らしい亢奮を覚えた。
毎晩、夕飯を済すと、彼等は一つの灯の下に顔を揃えた。そして、開け放した庭から流れ込む沈丁花の香の漂う柔かな夜気を肌に感じながら、旅程を検べ、土産物の相談をし、留守番のしがくをすることが、共通の愉しみとなったのである。
それにも拘らず、愈々決定するとなると、ゆき子は心の渋るのを感じた。
決して、×県に行くのが厭だというのではない。併し、行かなかったら、もっと自分の心に、生活に、直接な悦びが獲られはしないかという逡巡が、段々頭を擡げ始めたのである。ゆき子は、文筆に携る仕事をしていた。丁度、その時分、長い辛い仕事が目前に控えていた。彼女は、もう半年もその一つに掛り切っていたのである。が、僅に緒にほか付かないその仕事は、まるで恐ろしい怪物のように、ゆき子の手に負えなかった。ただ、捗取《はかど》らないというばかりではない。何か、彼女が嘗て経験しなかった精神的無力が、それにかかってから彼女の心を暗くし始めているからである。
しばしば身も世もあられないような絶望が、ゆき子を襲った。が、恐ろしければ恐ろしいほど、苦しければ苦しいほど、彼女はその仕事に対する執着を捨て兼ねた。彼女にとっても、絶望のままそれを見限ってしまうことは、単に、或る一つの長篇作品を、未完成で放擲したというだけの事実ではなかった。それと同時に、創作に対する自信をも投げ捨ててしまわなければならないことだと、感じられていたのである。
「旅行も悪くないだろう勿論。けれども、余り馴染深くない真木の親族のうちに入って行き、たとい、好意によっても、生活を一層断片的なものにするよりは、静に留守をした方が、結局自分のためになるのではあるまいか?」
稀にはすがすがしい独居のうちに、何か新しい気分の転換を見出したら、また、仕事もどうにかなりはしまいかという考が、除け難い根をゆき子の心に下したのである。
けれども、
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