若葉が、ちらちらと日を漉く草の上に、軽らかな夏著をまとった若い女が、肱をついて長々と臥《ね》ころがっている。傍には、栗鼠《りす》が尾に波うたせながら遊んでいる。静けさ……涼しい風。不意と、人影に驚いて立上る拍子に、きらりと光った金の小金盆《ロケット》や飾帯《サッシ》の揺れを、四辺の透明な初夏の緑色を背景として、目のあたり見るような心持がした。熱した想像の中に自他の境が消えうせる。――彼女は筆を下した。次第に高潮して来る感興を根気よく支えながら、彼女は、一字一字と書き進めて行ったのである。――
若し、そのまま続いて行ったら、ゆき子は狂喜して、四月五日というその日に感謝を捧げたであろう。けれども、或る処まで行くと、彼女は、突然、我にもない力の喪失を感じ始めた。文字と心とが、次第に鈍い抑揚《めりはり》になって来る。如何に心に鞭を打ち、居住いを正して気を引緊めても、一旦緩んだ亢奮はただもう弛緩するばかりである。ゆき子は、足がかりもない砂山の中途から、ずるずるずるずると不可抗力で谷底までずり落ちるような恐怖に打たれた。捉まろうにも物がない。縋り付く者もいない! 彼女は恐ろしさに堪りかねて、泣きそうになりながらペンを捨ててしまった。
「!……」
今日まで半年の間、ゆき子はこの恐ろしい失望に面して来たのだ。「精神が稀薄なのか。持ち越す精力が足りないのか? 結婚するまでは、なかったことだ。自分は真木を得ると一緒に、この致命的な悪癖とまで婚姻してしまったのだろうか」特に、その朝は、前触れの気持が素晴らしかっただけ、希望が大きかっただけ、彼女の顛落は堪え難いものであった。
苦しさに充血したような彼女の眼前には、最も無表情な瞬間の真木の顔が、この上ない煩しさで浮んで、消えた。隣からは、ふざけ散した女の笑声がする――ゆき子は、今にも体がブスッ! と煙を立ててはち切れそうな自暴を感じた。
瞳には漠然と、昼近い何処やら厨房の匂のする日向の外景を見つめながら、彼女の暗くなった頭のうちでは嵐のように自分の結婚生活に対する疑が渦を巻いた。どの位、時間が過ぎたろう……。
不意に、背後で襖の開く音がした。ゆき子は、思わずはっとして我に還り、いそいで顔を振向けた。
彼女は、こんな気分の時、誰の声も聞きたくなかった。若し、妹か女中だったら、何より「後にして頂戴」と云おうとしたのであった。が、短い
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