共に真木の存在や気分を勘定には入れてくれない。若し、自分が、このまま一生居据ると云っても、恐らく誰一人それを真木のために愕きかなしむ者はなかろうと思うほどの皆の雰囲気が、却てゆき子をしんから悲しくするのである。
 床に就くまで部屋に籠っても、ゆき子は仕事に関して、一行の纏った収穫も得なかった。
 真木から来た絵葉書をまた丁寧に繰返して見なおしたり、思うともなく×県の、倉座敷で、蘭や夾竹桃の生えた家を思い出したり……、彼女の目の前には、何か云って笑いながら頭を振る良人の顔つきが、身動きをすると胸の痛むほど鮮に甦って来る。
 ゆき子は、余り心がさしせまると、そっと雨戸をあけてとめどもなく、月のない庭を歩き廻った。
 大きな青桐のかげ、耳を澄すと微に葉ずれの音のする椿や槇のこんもりした繁み。――雨戸を閉め切った大きな家は、星の燦く空の下で、悲しく眠り傾いたように見えた。
 ――丁度、×町へ来てから五日目の朝であった。
 ゆき子は、珍らしくその日は起き抜けから創作欲の亢奮を覚えていた。前夜、晩くまで読み耽った或る科学者の伝記が、持病になりかけた彼女の感傷を追払った。二三日来とかく頭を曇らしていた陰鬱は去り、朗らかな愛と勇気とが、曇のない朝の光線と共に、爽やかに身内に感じられるのである。
 健康な熟睡から醒め、体を洗い、彼女の肉体の潔らかさと共に魂の貞潔まで感じるような心持がした。息は深く、四肢に人間らしい力が漲り、自分の精神によってこの世に産れ出ようとする愛すべき無形の何ものかに、全心が本能の慕わしさで牽きよせられる気がするのである。
 ゆき子は、早めに朝飯を終り、出勤する父親を見送ると、そのまま自分の部屋に引取った。そして、下見窓から流れ入るほどよい朝かぜにかこまれ机に向うと、彼女は、嬉しさで心がときめきを感ぜずにはいられなかった。
「これでこそ来た甲斐がある!」
 ほんとにこの間じゅうのようでは、来ない方がよかったとさえいえる状態であった、あれほど固執して×町へ来た価値が何処にある。が「今日こそは!」ゆき子は、若い雌馬が勇み立って、その鬣《たてがみ》を振るように、肩と頭とを揺りあげた。そして、改めて坐りなおし、気を鎮め今まで書き溜めた頁を読みかえしているうちに、眼の前には、これから描くべき情景《シーン》が、ありありと見え始めた。
 そこは、日本ではなかった。鮮やかな楡の
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