視線に写ったのは、その中の誰でもなかった。母が、結いたての束髪の頭を下げて、ゆっくりと低い鴨居を潜《くぐ》って来る。――ゆき子は、云い表せない困惑と圧迫とを感じた。彼女は、母が自分の気分に対してどんなに敏感であるかを知り抜いていた。「これほどの陰鬱は到底隠せない。一目で見てとっておしまいなさるだろう」そして。――ゆき子は、振向けたままの顔に、強いて和らぎを添えながら、
「なんなの?」
と云った。
「別になんでもないんだけれどね」寿賀子は、女らしい黒い瞳を動かしてあちこちと部屋の様子を見廻した。
「どう?」
 勿論仕事はどうかと云うのである。ゆき子は、覚えず、声が窒《つま》るような心持がした。
「さあ……」
 彼女は、座布団の上で一廻りし、机に背を向けて母と向い合った。
「お坐りにならない?」
「ああ」
 問をかけて置きながら、寿賀子は、格別確かな返答を求めるらしくもなく、庭を眺めた。
「相変らずここはいいね、静で。――それに、一寸御覧、不思議にあの楓だけは虫がささないじゃないの」
 ゆき子は、窮屈に首を廻して外を見た。なるほど、庭にある大抵の紅葉は鉄砲虫に髄を食われて一年増しに貧弱な枝振りになっている中に、その樹ばかりは、つややかな槇の葉がくれに、さながら、臙脂茶の絹色をかけたような若芽を美しく輝やかせている。しかし、それを眺め愉しむには、彼女の心持は、余りに切迫したものであった。
 正直にいえば、彼女には、母のそこに来た訳が推察し兼ねた。何か用があるなら、それだけを早くすませて、一刻も早く独りになりたい気持が、激しくゆき子をせき立てた。彼女は、母の気を害うのを虞《おそ》れながらも、
「何か御用だったの?」
と反問した。
「用じゃあないがね、どうしているかと思ってさ。――」
 寿賀子は、娘の顔を見た。そして、忽ち娘の焦燥に照返されたように、微に表情を換えながら先に続けた。
「それに、昨夜も寝られないでつい種々考えたんだが、若し、ここにいる方が気分が纏まるようなら、当分いるのもよかろうと思ったのでね。――出来そうかい?」
 ゆき子は、声を出すより先に、自分でも心付くほど陰気な笑顔になった。
「あんまりうまくも行かないわ。――でもね」母の心持を思いやって、ゆき子は強いても張のある声を出そうとした。
「余り心配なさらないで頂戴よ。今によくなるから……あんまり傍で気を揉まれ
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