ろの癖があったり自己撞着があったりするのも畢竟は、私たちすべてのものが、ぽつんと天地の間に湧き出たものではなくて、波瀾を極める人間社会の肉体の歴史、精神の歴史の綾の裡から、またその綾に綾を加えるものとして生れ出ているからなのだろうと思う。
 私たちの心の中には、従っていろんな傾向が眠っているわけだけれども、あらゆる時代を通じて若い人たちは、きっと、その親たちよりはよりましでより合理的な生活を送りたいと希望して来たのだという動かしがたい事実を、私たちは改めて見直していいのだろう。人間がまだ穴居生活をしていたころから、その希望は本能的な生活の欲望として、人間の内に働いていたにちがいない。ごく原始的な表現で、例えばより工合よく体にかける毛皮を縫い合わせたいという気持がいつもあって、或るとき或る人間が先の尖った石か貝の片の一方に糸を通す穴をこしらえて針を発明した。コフマンは、女性に名誉を与えて、そうして人類の生活に初めて針をもたらしたのは、多分その頃はぼうぼう頭で日向にかがんで毛皮をつぎ合わせていた人類の女性だったのだろうと想像している。
 コフマンの仮定をうけ入れるとして、人類の遠い遠い祖先の女が針らしきものを社会生活にもちこんで以来、今日まで、女性のよりよく生きたいという希望は社会の発展とともにあらゆる面で複雑になり高度にもなって来ている。
 幾世代の歴史の間で、人間はたしかに進歩して来ているのだけれど、その著しい進歩はどうして可能だったのだろう。
 例を近くにとってみれば、一人の男、一人の女がそんなに入り組んだ諸要素をもって生れて来ていて、それでどうして、その要素の各方面にひっぱられてしまわないで、半歩なり一歩なり前進して来ているのだろうか。
 結婚生活または家庭生活というものを、私たちはまだまだどこやら穴居人の洞めいたものに感じる蒙昧さがのこっていると思う。そこの内部は何か人目からかくされた場所で、そこにある丁度いい暖かさ、体にあった窪みを、ほかのものには相当堪え難い悪臭とともに、自分たちの巣の懐かしさとして愛着する、そういうところがありはしないだろうか。
 家庭のくつろぎ、居心地よさというものを、その人のよさ、ねうち、生活への美しい意企を誰よりも深く理解しあった者同士が感じ合える、その味いとしないで謂わば手ばなしでめいめいの癖を出し合える場面として、ひとにも云えな
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