のではなかろうかと思った。民間のいろいろの業者・経営者にとって、月給はともかく現金では半額だけ手わたせばいいということは、不便な方法ではなかろう。悪質の支払主は、そこに相当の才覚と無恥とをくりひろげることは火を見るよりも明らかなのだから。そうしたら、うちはどうしてやって行くのだろう。
学生の生活にも、そういう世間の動きは直接間接に響いているわけと思う。その面からだけでも、家庭と学生生活とのいきさつは、そうそう暢気《のんき》に行ってもいないのが現実であろう。家庭の間で、学校へ行っている若者たちに対する大人の感情がどんなに変って来ているかというような点も相当微妙だろうと思う。学生を未来の担い手として愛し感じている風潮であるか、それとも、学生は未成人であるという面を強調して観られてゆくかということでは、人生の光彩が大分違って来る。
たとえば、福沢諭吉の時代、学生というものはまぎれもなく未来の担い手としての理解において自他ともに存在させられていたと思う。上野の山に砲声をききながら、福沢諭吉は塾の講堂を閉さずに、経済学の講義をしつづけた。このことには、学生をいかに見るかということについての信
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