夏遠き山
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木端《こば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多分|河楊《かわやなぎ》だろう

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二七年七月〕
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 今日も雨だ。雨樋がタンタンタラ・タラタラ鳴っている。ここ(那須温泉)では殆ど一日置き位に雨が降る。雨の日は広い宿屋じゅうがひっそりして、廊下に出ると、木端《こば》葺きの湯殿の屋根から白く湯気の立ち騰るのや崖下の渡廊下を溜塗《ためぬ》りの重ね箱をかついだ束髪の菓子売りが、彼方の棟へ渡って行くのなどが見える。私の部屋は四階の隅だ。前の廊下を通る者はなく、こうやって座っていても、細い鉄の手摺り越しに遙か目の下に那須野が原まで垂れた一面の雨空と、前景の濃い楢の若葉、一本の小さい煙突、よその宿屋の手摺りにかかった手拭などが眺められる。濡れて一段と美しい楢の若葉を眺めつつ私はこの景色の中では木端屋根《こばやね》がなかなかよい、調和し落付いた風景の一部をなしているなどと思う。この辺は風も強い。三月頃まで家を揺って強風が吹きまくるので、瓦屋根には出来ない。それでどの家も細かく葺いた木端屋根なのが、粗く而も優しい新緑の下で却って似合うのだ。裏通りなど歩くと、その木端屋根の上に、大きなごろた石を載せた家々もある。木曾を汽車で通ると、木曾川の岸に低く侘しく住む人間の家々の屋根が、やっぱりこんな風だ。早春そこを通ったので雪解の河原、その河原に茂っている多分|河楊《かわやなぎ》だろう細かく春浅い枝をひろげた灌木、山又山とほんのり芽ぐみつつまだ冬枯れの密林が連った光景、そこへそのような屋根を点々と、如何にも山村浅春の趣が深かった。葉をふるい落した樹木の線の実に卓抜した美を感じたのもここを通った時の獲物だ。
 那須には、そんな一種繊細なところのある風景は尠い。然し何と重厚に自然は季節を踏んで行くことだろう。先月二十七日に来た時、東公園と呼ばれる一帯の丘陵はまだ薄すり赤みを帯びた一面の茶色で、枯木まじりに一本、コブシが咲いていた。その白い花の色が遠目に立った。やがて桜が咲いて散り、石崖の横に立つ何だかわからない二丈ばかりの木が、白い蕾を膨らませ始める。――五月の緑の間に咲く白い花を私は愛する。東京を立って来る前、隣りの花園で梨の花が咲いた。もう葉桜だ。その木の間がくれに見える白い梨花、春の嵐が来て空は今にも大雨を降らしそうな鉛色で鈍く暗く、光る。その下にねっとり白く咲く梨の花の調子は、不安なポプラの若葉の戦ぎと伴って、一つの音楽だ。熱情的な五月の音楽だ――何の花だろう。何の花だろう。朝起きるとその木を見る。女中に訊いても樹の名を知らぬ(大体、田舎でも樹木の名など知らない人が多いのは意外だ。却って田舎の人が自然と絶縁して暮している)或る朝、ところが、一番日当りよい下枝の蕾が開いた。その清らかに爽やかな初夏の贈物に向って心が傾きかかった。日ごとに白い花の数は増して、やがて恰好よい樹がすっかり白い単弁の花と覗き出した柔い若葉でつつまれた。幾日かかかって花は満開になったのだ。その満開のまま今度は更に幾日も幾日もある。那須山麓のことだから、その間一日おきに雨が降る。細かい雨、横なぐりなザンザ雨、または霧、この間は家根をも剥しそうな大風が吹いた。硝子が鳴り、破れそうで眠れない程であった。起きて廊下から瞰下《みおろ》すと、その大風に吹き掃かれる深夜の空には月が皎々と照り、星が燦めいている。丁度、月の光りに浸された原野の真上のところに、二流れ黒雲があった。細く長く、相対して二頭の龍が横わっている通りだ。左手の黒龍の腹の下に一点曇りなき月が浮かんでいる。やや小ぶりな右手の龍が、顎をひらき、その月を欲して咬み合う勢を示した。左手の龍は憤り、ドーッ・ドーッ風の吹く毎に体を太く太く膨らかして来る。南方に八溝連山が鮮やかに月明に照されつつ時々稲妻を放つ。その何か奇異な深夜の天象を、花は白く満開のまま、一輪も散らさず、見守っている。――
 この花ばかりではない。第一には若葉のひろがりにしてもそうだ。この山名物のつつじにしてもそうだ。北方の春は短かく一時に夏景色になるわけなのに、この高原では、すべて徐々に、すべて反覆しつつ、追々夏になって来る。東京で桜が散った後は、もう一雨で初夏の香が街頭に満つが、ここでは、こうやって今日一日降りくらす、明日晴れる、翌日は又雨で、次の日晴れる――ああ、何か一種異様の愛着をもって自然が推移するのだ。それ故、一月近くいて見ると、ここを去るのが変にのこり惜しい。いつか四周の自然に暗示されて、何か見るべきものの終りを見ずに去るような感情さえ起させるのだ。こんなことも、××屋主人に
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