とっての何と天恵であろう! この宿には一年以上滞在する客が珍しくないということだ。本当に、活動から遠のく不安さえ感じなかったら、この自然とともに根気よく、一年でも二年でも落付いていられるだろう。硫黄泉のききめばかりではない。××屋×太郎君が、楢木立の奥の温泉神社へ「報神恩」という額を献納したのも、当を得たことだ。然し(山の神様笑いながら仰云った。この額はちっと手軽るすぎるね)。

 東京から一人新しい連れが加ったりしたので、十六日の快晴を目がけ、塩原まで遠乗りした。緩《ゆっ》くり一時間半の行程。皆塩原の風景には好い記憶をもっていたのでわざわざ出かけたのであったが、今度は那須と比較して異った感じを受けた。箒川を見晴らせるところというので清琴楼に一泊した。いい月夜で、川では河鹿が鳴く、山が黒く迫って、瀬の音が淙々と絶えない。燈を消し、月あかりで目前の自然を眺めていると、余り所謂いい景色という型に嵌っていて、素直に心にうけとれない。妙な心持であった。子供の時分、幻燈で白い幕の上に映して見た月夜のどこかの景色、水も山も蒼い光に包まれたところがまるでその朧な思い出のうちにある、幻燈の通りだ。この月夜の景は現実のものか、それとも一つの幻像か。自分が椽近く座っている、その位置の知覚が妙に錯倒する心持がした。金色夜叉の技巧的美文が出来ざるを得ない自然だ。――都会人の観賞し易い傾向の勝景――憎まれ口を云えば、幾らか新派劇的趣味を帯びた美観だ。小太郎ケ淵附近の楓の新緑を透かし輝いていた日光の澄明さ。
 然し、塩原は人を飽きさす点で異常に成功している。どんな一寸した風変りな河原の石にも、箒川に注ぐ瀧にも、すべてに名所らしい名称があって、そこには一々立札が立っているというのは、何と五月蠅いことであろう。塩原温泉組合は、遊山人のために何一つ発見すべきものを残して置かない。山歩きをしているうちに、偶然見つけた素晴らしい木蔭、愛すべき小憩み岩、そんなものは先へ先へと何人かの足が廻って既に札を建ててしまう。その癖、今、都会人が散策する山径が、太古は箒川の川底に沈んでいただろう水成岩であること、その知識によって自然力の微妙さ永遠さを感じさせる手段は一つも講じてない。
 近頃熾に東京日日新聞で、日本新八景の投票を募っているが、あれなど、どういう眼目で新八景を選出しようというのか。那須も塩原も、十位の外に洩れまいとして滞留客へまで帳面を廻し、ハガキ百枚、二百枚と寄附して貰い、三井さんが一万枚寄附して下すったという騒ぎだ。塩原では、臨時事務所のようなところが出来て、そこでは屈強な若者が十数人鉢巻をして、山積したハガキを書いている。通行人の寄附を待つためだろう。往来に机まで出し、選挙事務所のような有様だ。日日は、頻りに投票ハガキの多いこと、為に中央郵便局の消印機が過熱して使用に堪えぬとか、コンクリートの五階が潰れるとか、センセーショナルな記事をかかげる。都会に起ることは知識階級の注意を呼び醒し易いが、この新八景投票のように地方を中心としている現象は、案外多くの弊を生じつつ黙過され勝だ。芸人の投票を昔小新聞がしたように、投票者が実在してもしないでもよい、数さえあれば――つまり運動費が最後の勝を占めるという風なやり方は、果してどれだけ意味があることだろうか。新聞の広告法だ。同時にそれぞれの地方の或る程度の宣伝にはなるが、このことを目撃し、助力した多くの青年、少年達は、投票ということに対して、どのような観念を得るか。時代は投票の純潔さを益々必要とするのに、実際は、公機であるべき新聞が先棒でその逆が勝利を占めることを実地教訓する。――これは一つの苦々しき滑稽だ。新聞が、いかに理想低き一営業に過ぎないかを表白している。この精神的影響の上に数万円のハガキ代と、運動費、夥しい労力の消耗との結果、新たに八つの俗地が提灯持ち的に紹介されるに過ぎず、結局日日新聞の広告が全国的に最も有効に行われた事実に帰着するのみだとすると、抜け目なき脳味噌よ、悪魔に喰われろ《チョールト・ポベリー》[#「悪魔に喰われろ」にルビ]、と云いたいような気がすることではないか。広告心理研究《サイコロジー・オヴ・アドヴァタイズメント》の、これは、積極的手段の一例、愛郷心及営利心を利用する方法の実例として好箇のものであるに違いない。――

 雨がやんだ。靄が手摺の下まで迫って来た。今にもう少し暗くなると、狭い温泉町の入口に高く一つ電燈が点る。特に靄のこめた夕暮、ポツリと光る孤独な灯の色はその先に海岸でもあるような心持を抱かせる。北の荒れた漁村でもあるような風景を描く。
 おおこれは。――深い靄だ。晴れた黄昏にはこの辺を燕が沢山翔ぶのだが。
[#地付き]〔一九二七年七月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本
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