うこともなく、彼女は散歩のように楽な気分で、鎮った屋敷町を進んだのである。
巡査の姿は見えない、とある交番の傍から、道幅の狭い、商売町にかかる頃、四辺の靄はもうすっかり霽《は》れ渡った。屋根の瓦や、眠りから醒めた小さい飾窓《ショーウインドー》に、チラチラと日が照る。店頭に動く小僧の姿、黒い外套に息を白く見せて行違う学生の通学姿等が、そろそろ、急しい午前七時の町筋を思わせる。
起きたばかりの文房具店の横から右に曲り、また静かな裏通りに出ると、お恵さんの足は、何時の間にか速くなって来た。天理教会の支部は、もう一つ先の角を折れた坂上にある。今迄、あまりゆっくり歩き過たという意識と、先がもう遠くはないという考えが、我知らず彼女を急き立てたのである。
お恵さんは、丁度先に行く中学生の足並に、後れまいとするような意気込みで、せっせと足を運んだ。そして、最後の角に在る寺の近くまで来かかると、彼女は、急に何ともいえない胸苦しさを覚え始めた。
何かに驚きでもしたように、胸がドキリとしたかと思うと、俄に鼓動が烈しくなり、うっかり動いたら、忽ち倒れてでもしまいそうに、呼吸が迫って来るのである。
鼠色の地味なコートの袂を合わせて胸を押え、お恵さんは、瞬間、どうしていいか、途方に暮れて立澱んだ。四辺には、介抱を頼むような家もなければ、人もいない。
とにかく、凝っとして、落付けなければ、どんなことになるか知れない。先達って中からの経験で、お恵さんはこんな時、安静が何より必要なのを心得ていた。
彼女は、出来るだけ、体のどこにも力を入れないように、足の幅だけ横いざりをして、往来の邪魔にならない道傍に退いた。
何時の間にか、髪の生え際に、ねっとり冷たい汗が滲み出した。げんなりし、節々から力が抜けたようになり、お恵さんは、立ってもいられなくなった。
彼女は、首を垂れ、胸を掻き抱いてそこに蹲《しゃが》んでしまった。
あまり突然な変化で、何事が起ったのか、彼女自身にも解らないほどだった。今までのあらゆる現実は、いきなりふいっと消えてしまい、漠然とした、本能的な、寂しい、疲れた感覚ばかりが、体も心も、一杯に埋めてしまったのである。
お恵さんは、背を向けた往来を、威勢よくガラガラと転って行く、牛乳屋の空車の音も聞かなかった。目の前に、顔を刺しそうに突出ている、尖った枳殼《からたち》の垣根も見なかった。
ただ、時を切り、厭な寒気と、いくら口をあぷあぷさせても吐き切れない息の苦しさばかりが、体を震わせる。彼女は、薄すり閉じた瞼の下で、顫える寒天のような灰色の空間を見た。下から上へ、下から上へと、無数に真青な焔が立って行く。
お恵さんが、常願寺の裏から、吊台で運び返されたという急使を受けた時、お幾の愕《おどろ》きは、想像も許さないものがあった。
結いかけていた髪もまとめず、くるくる巻のまま、体中で震えながら彼女が馳けつけた時、迎えたお恵さんは、もう、
「よくいらしって下さいましたね」
と云って微笑む、今朝までの彼女ではなかった。
冷たく堅くなった、一人の淋しそうな婦人の遺骸が、落付き悪く、三年前、良人が横わったと同じ場所に臥っているのである。
唇迄蒼白くなり、お幾は、口も利けなかった。
部屋には、偶然通り合わせて、人だかりのした行路病者が、お恵さんであるのを見つけたという、矢張り、同じ信心仲間の年寄がいた。妹が死んだとなっては、さすがに棄てても置けまいという風に、常は冷酷な兄の、卑しい大きな顔も見える。
然し、お幾は、それ等に、適当な弔みを云うことさえも忘れた。
こんなことがあり得るだろうか。こんなことが、あってよいものだろうか。
膝で進んで顔被いをとり、さほど面変りもしない友の容貌を見守ると、始めて彼女の眼からは、とめどない涙が流れ出した。
相変らず女らしい形よい額つき、つつましさそのもののような眉。道ばたで死のうとし、最後に何が彼女の心に閃めいたのか、色のない唇には、実に綺麗な、しかも、ぞっとするほど神秘的な微笑のかげが差しているではないか。
名を呼ぶにはあまり悲しく、礼をするにはあまりなつかしく、お幾は声をあげて泣きながら、額を、細い友の手にすりつけた。
逆さまにかけられた黒縮緬の裾模様からは、ほのかに樟脳の香が立ちまよう。
皮膚から心までしみ徹すような冷たさと、涙の熱さを感じながら、お幾は、心の裡で、最後の友愛を友に誓った。若しお恵さんに、一言口を利くことが出来たら、彼女は、どれほど、独りの娘のことを云うだろう。どんなに痛わしがり、不幸な縁を歎くだろう。
たとい、口は永久に喊《とざ》されても、お幾には、耳に囁かれると同様、強く、はっきり、友の心は感じられた。自分にかけられた沈黙の裡の信任を、お幾は、天地の間に読み取っ
前へ
次へ
全9ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング