った『谷底へ落ち切れ』でね、神様から拝借ものの体を、我慾で劬《いたわ》っているうちは、どうしたって、本当の道には達しられないのです」
自分の雄弁に自ら酔い、謹聴してくれる友の顔を見ると、お幾は、自分の身などを顧る余裕がなかった。福音の伝道者のように、彼女は亢奮を覚えた。
単純なお幾は、それなら、実際、自分がどれだけの労役を信仰のために勤めているか、また、お恵さんの生理的状態は、事実に於てどうなのか、考える暇もなく、熱烈な発奮を促したのである。
彼女に、仮借しない調子で、
「あなたの御信心は、そもそもの始りから、自分一身だけの安楽のためばかりでは、おありなさらないでしょう? いわば購いのためなのですものね。広田さんや誠之さんが、仕合わせな甘露台にお住みなされるように、また、この世では淑子さんも幸福でいらっしゃるように、御寄進をしていらっしゃるのでしょう」
と云われると、始めは、稍々《やや》驚のみを以て聞いていたお恵さんも、友の言葉に耳を傾けずにはいられなくなった。全く、神の心は、計り知られない。いつ、どこに、どんな啓示が潜んでいるか解らない。亡くなった良人、息子、また、ただ独り、いつも、黒い瞳で自分を見守っている娘のことを思うと、ふと弛緩した信仰の重大さが、新しい威力で、津浪のように迫って来た。
「私もね」
お恵さんは、静かながら、偽りではない声を出した。
「決して、疎そかな心でいるのではありません。けれども、なにしろ弱いのでね――本当に……深い信仰にさえ入れないのかと思うと、こわいようになりますわ」
「それがいけないのですよ、お恵さん。自分で弱い、弱い、と云うのは、まるで、達者になろうとしないで、弱いのを、先に立ててついて行くようなものですもの。忘れるのですよそんなことは。そして、一心不乱に、身上《みじょう》助けをなさるの!」
頭を使って、これ等の言葉を聞き分ければ、どこかに、お幾の、自覚しない身勝手が感じられたかもしれない。然し、誰一人、親しく自分を鼓舞してくれる者もなく、確かりなさい、と、肩を叩いてくれる者も持たないお恵さんにとって、これは、一方ならない、励しの言葉であった。
とにかく、お幾の元気が、細そりと、蒼白い、お恵さんの肉体を貫いて、一種の電気でも通じるように見える。次第に、彼女自身も亢奮し、覇気を持ち、踏み出した道なら退くまいという勇気が、湧いて来るように感じるのである。
素直なお恵さんは、この刺戟一つに対しても、お幾の友情を徳とした。
彼女は、心から、
「ありがとう。私も確かりしますわ。本当に、自分の心ほど、自分で判るようで判らないものはないのですものね」
と云った。
「私も、せいぜい元気になりますよ」
二人は、笑顔を見合わせた。
「そうですとも。私だって、出来ることなら、この体の半分も、あなたに足してあげたい位に思っているのですもの」
自分の言葉が、快よく受け入れられた歓びで、お幾の血色よい顔は、一層つやつやと輝くように見えた。
彼女は、気軽な滑稽を云いながら、淑子や女中を集めて、御持参の鮨の折を開いた。
それから間もない或る朝のことであった。
お恵さんは、いつものように、手軽な朝飯を終ると、身仕度をし、自分で夜来閉された門を開いて家を出た。ひどく靄《もや》の濃い朝である。
ひっそりした午前六時過の天地は、一面、乳白色の、少しきな臭いような靄に包まれ、次第に昇る朝日に暖められた大気が、水のように身辺を流動する。
奥には溶けるような薔薇色の輝やきを罩《こ》め、稀な人影を、ぼんやり黒く浮上らせる往来の様子は、彼女の心に、珍らしい美しさを感じさせた。
ところ、どころの靄の切れめからは、チカチカと粉のように耀く杉の黄葉や樫の梢が見える。一間二間と、歩みにつれて拓けて行く足下の往来の上では、濡れ湿った小石の粒が、鋭い少年の眼のような反射をなげる。
まだちっとも塵の立たない大きな屋敷の塀の内で、元気な犬が、胴震いをして頸輪を鳴らし、嗅ぎ音を立てながらあっちこっちしている気勢なども、如何にも快い十二月の朝らしく響いて来る。
何に行手を遮られることもなく、寒く、しかも暖く靄と太陽とに纏まれて歩いていると、お恵さんの心には、何とも云えない平安が満ち溢れて来た。
この道も、幾度通った処だろう。時には、明朝を想うさえうんざりして、のろのろ足を引擦って来たことのある路だ。
それが、今朝は、まるで違った世界に在るように気持よい。自分が、近頃になく心持よく、若返ったように感じる通り、自然も、子供で、愉快な活力に横溢しているように思われるのである。
彼女の足は、自ら軽々と動いた。こうやって行くと、まるで、勤めで、ここまで行かなければならないという歩行ではないような気がする。焦ることもなく、思い煩
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング