音楽の民族性と諷刺
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)齎《もた》らされる
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(例)[#地付き]〔一九四〇年七・八月〕
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この春新響の演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響楽」は、今も心のなかに或る感銘をのこしている。一度ならず聴いているこの交響楽から、あの晩、特別新鮮に深い感動を与えられたのはおそらく私一人ではなかったろうと思う。
十九世紀のあの時代のロシア、そして、そこを生きたチャイコフスキーが、音楽そのものの力で語り、描き訴えている生命の色彩の生々しい古典性が、見事に流露された。非常に面白く思われた。あの作品は、とかくチャイコフスキーのスラブ的なものというものに足をとられて演奏されることが多く、その結果はかえって作品の生命感を弱めたり甘くしたりする場合が多い。これまでは、どことなくそんな傾きの伴った「悲愴」をよく聴いたような気がする。
先頃の新響の「悲愴」は、そういう意味での観念でかたちづくったスラブ的なものにこだわらず、音をつかんで音の息づいている生命の流れに従っていて、あれ
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