だけ音楽として独特の美を発揮させたと思える。チャイコフスキーの生粋な芸術家としての創作の力をも感銘させられた。民族のさまざまな特質やその特質を更に個性のニュアンスで音楽にうちこめている作品の再現としての演奏が、純粋に音の領域から入ってその精髄にふれてゆくことも、いろいろと考えさせて感興ふかかった。
 音楽にも民族の性格が顕著なのは自然だが、その自然なものを扱う手法には、種々の不自然さが生じているのが現代社会の一つの悩みであり、課題でもある。この間の「悲愴」の美しさから思いめぐらしても、音楽にある民族的な特性というものを、音楽の外からの解釈や説明でつけ加えても、それが芸術音楽としての内在的な充実感となって来ないということは、しみじみわかる。そしてまた、音そのものの記号の上にだけ民族的特徴をとらえたとして、それの羅列で作ったところで、やはり流動する生命のリズムとしての民族性は人の心をうつものたり得ないことが実感されたのも興味ふかかった。文学は、文字でかかれつつ文字の上にだけその生気をとらえているのでなくて、むしろ、文字から文字へのうつりの底に、流れ動き脈うつ芸術性を湛えている。音楽の日本的
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