、痛切に考えられる。芸術の素質として民族に特有なものは、いつも具体的であって、それがさけることが出来ない歴史の波、社会の発展の段階の明暗を映していることが、十分芸術家の生活感情として把握されなければならないのだろう。
音楽の歴史と諷刺のことも何となく知りたいことの一つである。文学の世界でも、絵画の世界でも、強烈な現実性と批判の精神と手法として大胆なディフォーメーションを必要とする諷刺は、そう誰にも創り出せるものでなかった。音楽が芸術であるからには、美の一種目として諷刺を避けてはいないのだろうと思う。私たちはよく、諧謔的にと添えがきされる場合を知っているが、諧謔は感情の性質として諷刺と同じではない。妥協的であっても諧謔的では、あり得るのだから。偉大な作曲家たちの精神のなかで、諷刺の本能はどんなに半醒の状態におかれていたのだろう。過去の雄々しい作曲家たちが、平民の生れで、諸公たち、諸紳士淑女たちの習俗に常に居心地わるがりながら、しかも僅に、その諸公、諸紳士淑女をもよろこばせる範囲の諧謔に止っていたのだとすれば、明日の作曲家たちの宇宙は、この方面にも勇ましくひろげられて行くはずなのではない
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