トロフ両人の極めてダイナミックな社会精神と感情の活動を一貫してどこにも古風なバラライカの響となってつたわってはいない。彼等は新しい人間たち、新しい文学のつくりてである。それにもかかわらず、「黄金の仔牛」の全篇は、そのどことも云えない到るところに、イリフ、ペトロフが決してフランス人ではない味、イリフ、ペトロフが決してドイツ人ではない味というものを含んでいる。云いかえれば、ゴーゴリの諷刺は、今日のロシアの歴史の現実のなかで、成程こうも生きかわり得たのか、と感歎する心持をつよめられるのである。
 チャイコフスキーが、世界の音楽をゆたかにした古典のロシア的なものは、直接にゴーゴリと並べては云えないけれども、ゴーゴリの諷刺が「黄金の仔牛」によって生れかえられ高められたようには、まだ何人によっても――ショスタコヴィッチによってでも高められていないのではないだろうか。
 芸術における民族の特質の微妙で複雑な消長が、ここからも私たちの心に訴えて来ると思う。民族性を古典の規範にしばりつけて考える誤りも明白に理解されるし、さりとて、その新しい展開が単に技法上の新展開だけで齎《もた》らされるものでないことも
前へ 次へ
全8ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング