幸雄の信頼を受ける唯一人の者であった。
朝起きる、寝台で牛乳を飲む。着物を着換え、顔を洗ってから、庭に出る。ちびた下駄を穿いて昼までぶらぶら歩き廻る。午後昼寝。また散歩。夕飯後風呂に入ってきっちり八時には床に入った。九時には婆やが燈を消して歩くのだが、その間に口を利くのは朝御用ききが来たときだけであった。笑うことがない。幸雄は散歩――といっても庭内を歩き廻るためだけに、そのように威厳に満ちて生きているのだろうか。
石川に分っている病人の心持は、花が好きということだけであった。庭にまだ霜どけがする。その時分から、病人は枯芝の上を歩きつつ、
「ねえ石川、ダリヤの球根持って来とくれよ」
と注文した。
「少し早すぎましょう」
「いいよ、もういいよ、咲くよ」
石川は、その辺にころがっている腐った球根でもかまわずもって行って土に埋めて見せた。
「乾くといけないねえ、枯れると困るよ」
時候が時候だし芽の出ようはないのに、病人は楽しんで朝起きると、土に水をやった。夕方歩いても水をやる。一日の中を久しい間立って眺めて育つのを待った。春の彼岸頃、石川は今度こそ本物の球根を運んで来て花床に植込んだ。
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