。――いいから、福ちゃんも新橋へおかえりよ」
と返事するのであった。福ちゃんと呼ぶのがいかにも母親の果敢ない一生を云い当てているようであった。その返事を聞くと奥さんは猶嘆いた。
「どうしてそういつまでも本当でないだろうねえ――幸坊。ちゃんと散歩をおしなさいよ」
「ああ」
「ねえ石川さん、切ないんですよ私ああいうのをきいていると、ねえ石川さん」
 泣いて泣いて、また変になってしまうのであった。

 不幸な親子のうちへ訪ねて来るのは原宿だけであった。それも義務上一年に数えるほど顔を出すに過ぎない。奥さんは、寒中余り水に濡れては震えていたので肺炎を起して没した。幸雄はまったく孤独な者となったのを心のどこかで感じたらしく見えた。箪笥の中から茶箪笥の中まで異常な注意深さで管理した。台所まで口を出すので、石川は或るとき、
「台所のことは女の領分ですから、婆やにお委せなさいまし」
と云い含めた。
「あなたは旦那様ですから、ちゃんと奥にいらして、食べたいものをお云いつけなさい。そうすれば何でも出来ますから」
「――そうかい、できるかい」
「きっと出来ます」
 石川は、何の魅力でか誰の云うこともきかない
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