に向って来る。石川が止ると、手を挙げてひどくおいでおいでをし、力を盛返して駈け出した。変に縋《すが》りつくようなところがある。双方から近よると、石川は、
「何だね、お君どんじゃないか」
と云った。飯田の小間使いであった。
「何か用かい」
君は息が切れて口が利けない。口が利けないまま、石川の着ている羅紗のもじりの袖を掴んでぎゅうぎゅう来た方に引張った。
「来て下さい、直ぐ。よ! よ!」
ふと石川は火でも粗忽したのかと思い、
「火か?」
と訊いた。お君は、ふっくりした束髪の前髪がちぎれそうに首を横に振った。
「――奥さまが大変なの」
いきなり、お君の眼から大きな涙がころがり落ちた。
「早く来て下さいよ、奥様が本当に大変なのよ」
大股に戻りながら、石川は頻りに訊くが、十七のお君は動顛して泣きながら、
「大変なのよ、変になっておしまいなすったらしいのよ」
と云うだけだ。娘らしい頬に透き徹った涙が輝やいてふりかかる様が可憐であった。
「しようがねえじゃないか、確りしなけりゃ」
「こっち、こっち」
大きな八つ手が植込みになった横から石川は台所に廻った。硝子戸が開いて、外套を着た男が佇んでいる。男は石川を見ると、ひょいと頭を下げて傍へどいた。
「あら! 帰らないで下さいよあなた! あなた」
という奥さんの声に石川は、
「やあ」
と入口に立ったが、べったり流し前の簀子《すのこ》に座布団もなしで坐り込んでいる彼女の風体とその辺に引散らかしてある物品を一目見ると、君が泣き出したのも無理なく思えた。石川は上り框に蹲み、
「どうなさいました、え? 奥さん」
と声を励ました。石川の胸に、三年前幸雄が力ずくで病院に連れて行かれたのを見たときと同じ、酸っぱいような鼻の髄が痛いような感情が甦った。奥さんは手元にあるだけの株券、公債、銀行通帳、宝石の入った装身具類などを悉《ことごと》く簀子の処へ持ち出し、
「これだけ財産があるんですから、本当に、御迷惑はかけませんよ、――だからどうぞ今日から親類になって下さい、……ね、私達そりゃあ淋しく暮しているんですよ、二人ッきりでね、幸坊と私と二人ッきりでね」
と心をこめて訴えているのであった。傍で、年嵩の女中が気が気で無さそうにそれ等の物を他人の目からかばおうとしている。石川を見ると、奥さんはのり出し、一層優しく、いかにも侘しい境遇にいかにも堪えきれぬらしく云った。
「ね石川さん、そうですわね、あなただって親類になってくれるでしょう? 二人っきりでねえ、私と幸坊とねえ、財産はあるんですものねえ……」
そのように親類になってくれと懇願されている者は、電燈会社の集金人であった。石川は台所へ上って、
「奥さん、あの人には私から親類になるようによく話しますからね、一先ずこんな物はしまって置きましょう」
と云った。
「親類になるまでに無くなるといけませんからね」
彼女は子供のように石川の後に跟《つ》いて台所と部屋との間を往復した。
「じゃその指環は、右の引出しに入れて下さい。――でもねえ石川さん、あの人本当に明日来てくれるでしょうね、親類になってくれなかったら、私どうしたらいいだろうねえ」
「大丈夫ですよ奥さん。――さあよく見ていて下さい。おい、お君どんも来て。――この株券と帳面はここですよ、この黒い袱紗《ふくさ》の中です、わかりますか」
奥さんは縞お召の羽織の袖を左右から胸の前で掻き合わせ、立ったまま合点合点をしていたが、急に、
「あら大変だ、ね、石川さん、あのダイヤの帯留ね、どこへ行っちゃったかしら」
膝を突くなり、がむしゃらに小箪笥の引出しを引くるかえした。
「ああ私あれをなくしちゃ大変なんですよ、あれがないと私――どうしたろう。ここにしまいやしなかったかしら」
彼女は俄に心配し始めた。石川は、
「これですよ、ここに在りますよ、奥さん」
と手に押しつけて持たした。
「まあ、有難う。――ねえ石川さん、あなた本当に今日から親類になって、いろいろ相談にも乗って下さいね。――瀧ややお君はもうなってくれたの。……ねえ」
原宿の計らいで看護婦が雇われて来た。奥さんは長火鉢の前に坐って、
「まあどうしてこんなにお人形が入っているんだろう」
と、眼の力が人間以上になったように灰の中にあるどんな小さい燼《もえさし》の破片でも見付け出した。
「ほら、またここに――お人形さんですよ、お人形さん」
手当り次第傍の湯呑の中に入れる。
「おや、あの壁にもついている――そう云えば……君や、一寸おいで」
大柄な、手など薄赤くさっぱりした看護婦が、
「何か御用ですか、私が致しましょう」
と云った。
「いいえね、さっき手水《ちょうず》に行ったとき、あすこに大きなお人形さんがいたのを思い出してね、君や、おいでよ」
奥さんは幾時間でも
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