った。
「――姉さんの家で会ったことがあるの。――だから今度も東京へ来たって知らせてよこしたんだわ」
 子供の時から、あんなに仕様のない父親と云い聞かせて置いても物心がつくと、自分に隠してまで会いたく思うのかと思うと、おくめは感動せずにはいられなかった。ただ、親子の縁が断ち難く深いばかりでなく、もうまるで関係ないものと思って来た自分と良人との間は、見えないどこかで、確かりと結び合わされていたのか、と驚くような心持さえするのである。
 おくめは、深い思いをかくして、気強く、
「とにかく迷惑のかからないようにしなければいけないよ」
とつぶやいた。
「姉さんだって、一家を持っている体だし、お前だってこれから一人立ちをしようという大切なところだもの。また何かのことでひどい目にでも遭わされたら……」
「大丈夫よ。元はどんな人だったか知らないけれども、先に会った時なんか、ちっとも悪そうな人には見えなかったわ」
 娘の言葉は、おくめの心に、何ともいえず、なごやかな思いを萌え立たせた。
「それは、悪いというのではないがね。――」
 おくめは「それで、今はどこにいるのだえ、何をしているの?」という本能的な質問を、危く口許で呑み込んだ。
 のぶ子も、老境に入り、自分等を懐しそうに近づこうとする父に就て、種々話したいこともあるらしかった。が、母の心持を測り兼ね、遠慮をして彼女は、多くを話さなかった。
 お互が苦労をし、それぞれ心持も変ったらしい今、二人が会ったら、どんな心持がするだろう。会わせて見たいという心持が、のぶ子の心に、強く湧起っていたのである。
 二人は、各々、言葉で表わせる以上の心持を抱きながら、黙って、賑やかな電車通りに出た。裏通りでは、夜中のように鎮まり返った往来もここではまだ宵らしく、風呂帰りの番頭や小僧が、声高に喋りながら通って行く。俥の鈴の音や、自動車の警笛が、並んで立っている彼女等の背後を遽しく掠める。――
 お互の顔が、あからさまに見えるところに出ては、のぶ子も話の続きをし難く見えた。
 おくめもまた、聞きたいことは心一杯なのだけれども、何となく、言葉に出しては云い難い。
 そのうちに、グヮー、グヮーと濤《なみ》打つような響を立てて、あちらから電車が来た。
 おくめは、俄に気を揉み始めて、
「姉さんによろしくね。遊びにおいで」
と云いすてながら、急いで踏段に足をかけようとした。その時、傍に立っていたのぶ子は、何を思ったのか、いきなり二足三足近よって、殆ど自分の口と水平にある母親の耳の中に、
「阿父さんは、万世橋の沢屋にいるのよ」
と、せわせわしく囁いた。
「さあ、お早く!」
 車掌が、紐を持って急き立てる。
 おくめが、娘の顔を見返す暇もなく、電車はまた上下に揺れながら、広い外壕の通りに沿うて駛《はし》り出してしまったのである。
「あまりいそいだので、のぶ子は我知らず『お父《とっ》さん』と云ってしまったのだろうか」
 二つも三つも乗りてのない停留場を飛して行く電車の、ピリピリ震えるガラス窓に、ぼんやり自分の顔を写し、おくめは「阿父さん、阿父さん」という響ばかりを、全身の内に感じた。心は強く一点に捕われ、彼女は、まるで下駄の下にでも、磁石で自ら方向を覚るように呆然、下谷まで帰って来たのである。

        四

 その夜、おくめは、明方までまんじりともしないで床の上に眼を醒していた。
 奥の部屋はひっそりと寝鎮り、電燈を低く下した彼女の小室ばかりに、厳しい冬の夜気がしんしんと迫って来る。
 深く顎まで夜着に埋り、小さい木枕に頭を横えて思いに耽っていると、おくめは、自分が今どこにいるかさえも忘れるようになった。
「沢屋、沢屋、沢屋にあれ等の父親がいるのだ」ちらりと一言耳に挾んだだけで、彼女は、この、恐らくあまり大きくない旅館の表構えの様子まで、まざまざと目に浮んで来るような心持がした。
「何をしに東京へ出て来たのだろう――」
 彼女と一緒にいた時分から、彼が東京へ来るのは珍しいことではなかった。昔気質の、律気一遍な祖父の目を盗むようにしては、口実を拵えて東京に来る。そして、何をしているのか、商売の向《むき》は一日二日で済んでも、迎えの手紙が行きそうになるまでは、決して戻って来ようとはしない。――
 東京といえば定って、朝二番の上りで出掛けて行った良人の姿がおくめの心に髣髴《ほうふつ》として甦って来た。近所などでは滅多に見かけない粋《いき》な服装をし、折鞄などを小脇に抱えた後姿を、彼女は、幾度、嫉妬と愛誇《あいこ》とを混ぜ合わせた心持で見送ったことであろう。
 別れてから、十五年になることを思えば、彼も、もうよい年寄になっている筈である。けれども、おくめの思い出すのは、いつも三十五歳の男盛りともいうべき良人の姿であった。また、その面影に対して動いて行く彼女の心も、果して五十近い婆《ばばあ》の心持ばかりと云えただろうか。娘等に対すと、本能的に長者らしく働く彼女も独りでに懐《おもい》に沈むと、決して老い朽ちぬ苦労人の述懐ばかりではなかった。
「あの女房子も思わない、金使いの荒い男が、どんなに変って来ているだろう。
 大阪の方では、いずれ妻子を持っているのだろうが、どんな暮しをしているのか」
 おくめは、早速その沢屋という宿屋に出かけて行き、精《くわ》しくその後の模様を訊きただしたいほどの心持がした。彼のお陰で、自分があれからどれほどの苦労をしたか、思いのたけをかき口説いて、済まないと思わせるまで責め抜いても見たい。
「のぶ子が、あんな間際になってから、不意と父親の居場所を明《あか》したのも、若し会ったら、という念があったからではないだろうか」おくめの胸には、何ともいえない顫えが湧き起った。
「若し万一、男も自分同様独りでいて、若い時分のことも気の毒に思い、それとなく子等を仲に立ててまた、新しく縁を戻したいとでも思っていたら……」
 おくめは、その想像に堪えないように深い溜息をついて寝返りを打った。けれども――そんなことが果してあり得ることだろうか……彼女の頭には、追々実際的な反省が浮んで来た。「よしあったとしても、一旦、家のためとはいいながら、末の見込みがないと思って棄てた良人を、未練らしくよせつけることなどが、娘等の手前、世間の手前、出来ると思うことだろうか……」
 次第に亢奮が鎮り、一時燃え立った歓ばしい空想が色褪ると、おくめの心の裡には、老齢らしい種々の疑惑が頭を擡《もた》げて来た。
 第一、いくら年を取ったからといって、あの家を構わなかった男が、急にそう生み放した娘の身などを思うとは受取れない。
「東京に出て来たというのも、のぶ子に手紙をよこしたというのも、つまりは、あれを食いものにする積りなのではなかろうか」
 どこかで、のぶ子が来年にでもなれば一本立ちの出来るのをきき知り、今から手馴ずけて、いざという時、僅かの金でも出させようとする魂胆は、おくめにとっては決して、あり得べからざることとは思えなかった。思いがけないことを聞いたあまり、年甲斐もなくよい方へ、よい方へとばかり想像を走らせていた自分が、やがては嗤《わら》うべきもののようにさえ感じられて来た。
「追々自分も年を取り、心弱くなっているところへつけ込んで、母親もろとも、二度のだしに使おうとする下心が決してないと、誰が云えよう――がそれにしても……」
 おくめの魂は、深夜の宙に迷って、幾度となく、沢屋の辺を彷徨するように見えた。
 悪いなら悪いなりに、よいならよいなりに、直接彼の口から、何故東京へ出て来たのか、何故のぶ子へは便りをしたのか、訊き定めたい欲望が、体も火照《ほて》らすほど苦しく、強くおくめの胸にこみ上げて来たのである。――
 うとうととしたかと思う間もなく、もう起きなければならない時が来た。
 おくめは、寝不足と焦慮とで膨《は》れぼったい瞼を、強いて何気なく装いながら、定った朝の用事をした。
 主婦の米子は、何も心付かないらしく、昨日の様子を訊こうともしなければ、話させようともしない。けれども、黙っているおくめの心は、刻々に満ちて来る思いで、今にも溢れそうになって来た。
 珍らしい小春日和で、縁側には、畳の上まで長閑《のどか》な日が、ぽかぽかと差し込んでいる。
 裏を返してほした夜具の濃い色などを渋い眼にまばゆく感じながら、膝をついて雑巾などをかけていると、彼女の手は、いつしか一つところに止ったまま動かなくなった。はっと思って、四辺を見廻し、大いそぎでしかけた仕事を切りあげる。――
 ともかく昼もすませると、おくめは、息苦しくて、息苦しくて、到底家の中などに凝っとしてはいられない心持になって来た。
 縫物をとりあげても手につかない。主婦と、世間話もしていられないほど気がせける。何をどうということはない。まるで、家中の空気が急に堅くひしひし四方から自分を緊めつけるようで、おくめは、おちおち瞳《ひとみ》を定めてもいられないように感じるのである。
 彼女は到頭、外出の口実として買物を一つ思いつけた。新らしい寝具を一揃え新調した米子は、この間うちから、一つ夜具風呂敷を拵えようと云っていたのである。
 おくめは、止めろと云われない用心に、ちゃんと着物まで換えてから、何気なく、
「奥様、お砂糖を買いかたがた、お風呂敷も買って来ようと思いますがいかがでしょう」
と、米子の前に出た。
「そうね、別にいそぐわけでもないけれども……」
「でも――ついでに買って置きませんと、なかなか縫えませんですから……」
 決してこれは理由《わけ》のない申出ではなかった。
「――それなら行って来ると好いわ。緑色と白の唐草模様のね」
 ――その積りで家を出たのではなかったが、いかにも歩き心地よさそうに日の照った往来に出ると、おくめの心には、一層「沢屋」という文字が鮮やかになって来た。前を通っている電車にさえ乗れば乗換えもなく万世橋まで行ける。
「今頃は、何をしているのだろう。ひょっくりその角で出逢うまいものでもない。――」
 ちらりと、彼女の方を振返りながら行き過ぎる男でもあると、おくめは、覚えず、どきりとした。
 彼女は我知らず早足になり、大通りの、景気よく飾った呉服屋に入った。そして、望んでいた切地《きれじ》を買い、同時に、年齢に拘わらず女の心を牽きつける流行《はやり》の衣類などに目を楽しませると、不思議に焦立《いらだ》った気分も、自ら和《やわら》げられるように感じられた。
「何だろう、馬鹿馬鹿しい。まるで若い者みたいに――」おくめは昨夜《ゆうべ》来初めての余裕ある心持で、ひそかに苦笑さえした。が、再びほんのりと暖い往来に出、陽気にベルを鳴らしながら動いて行く電車を見ると、突然、彼女の心は、何ともいえず激しい力で衝き動かされた。
 おくめは、際どく「あ! 一寸待って下さい」と叫んで、傍の仲間と笑い笑いハンドルを執っている運転手に車を、止めさせたい気さえした。
「――どこへ行こうというのだろう……」やがて、彼女は、空おそろしいような顔をして、凝っと、赤い柱の下に立ち竦《すく》んだ。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月8日公開
青空文庫作成ファイル:
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