、せめて顔だけでもこっちを向き、笑って自分を迎えてはくれないのだろう。
「――お客様だそうだね」
おくめは、自分の心持を紛らすように、つぶやきながら坐についた。
「ええ、相変らず長いんでね」
ふさ子は、
「とめや、とめや」
と女中を呼んで、出来た銚子を運ばせた。
それから、徐《おもむろ》に向きかわり、
「先ずお変りなくて結構でございました」
と挨拶を始めた。
おくめは、娘ながら、気圧《けお》されるようで、調子よい返事も出来なかった。
瑞々《みずみず》しい丸髷に結び、薄すりと化粧して、衣紋を作ったふさ子の姿は、美しいと同量の威圧を与える。
「早くから来たいと思わないではなかったんだけれど……お前も知っている通り、何にしろ田舎者だからね。電車を思っただけでつい面倒になって……」
「そうですともね、時々乗換が違ったりしますもの無理はありませんよ。……でも、この間、海老原のお順さんが来て、阿母さんの消息を訊かれたにはすっかり困ってしまった」
「海老原って、国の?」
「ええ」
ふさ子は、鉄瓶を重そうに傾けて急須に湯を注《つ》いだ。
「――構わないのにさ!」
「いつでも阿母さんはそうお云いなさるけれども、世の中だもの、そう何でも彼でも構わないさでは済みませんよ」
海老原というのは、おくめの祖母の弟嫁に当っていた。祖母が後妻で、早く父を失ったおくめに、若いときから今日に至る苦労の種を与えた人であるということから、彼女は、海老原の一家にも好感は抱いていなかった。東京まで来て、また何か云って行ったのだと思うと、おくめは、その話を進める気分にはなれなかった。
「それはそうと、丈一はどうしたえ、もう寝てしまったの?」
彼女は話題《はなし》を換えた。
「ええ、もう、そろそろ立っちをするのであぶなくってね。ばあやも碌なのは見つからないし……」
「惜しいね、せっかく来て会わないのは。寝顔だけでも見せておくれな」
おくめは、ふさ子を促すようにして立ちかけた。
「じゃあ……のぶちゃん、お前連れてっておあげ」
のぶ子に案内されて、客間の外の縁側を廻り、奥の六畳に、すやすや寝息を立てている孫の顔を覗き込んでも、おくめは、どうも心が満たなかった。
これがただ二人ほかない娘の、やっと人になった一人の家へ来て味う心持だろうか。
自分は、他人の沢田の家などで、受けようにも受けられない暖かさを、ここで、思う存分楽しみたいと、我知らず待ち望んで来たのではなかったろうか。
おくめは、思わず、孫の寝顔を見守ったまま、
「姉さんも相変らずだねえ」
と呟《つぶや》いた。
「……気がせわしいもんだから……」
のぶ子は、自分が連れて来て、あまり歓待もされない母親に気の毒そうに独言した。
近所から鮨などを取りよせて馳走になっても、おくめは、まだ何かさっぱりしない心持で、おちおち味ってもいられなかった。途中で手間を取ったので、時間は、思いのほか晩《おそ》くなっている。
銚子が後から後からと数を重ねるばかりで、奥の客も、何時帰るか、見当がつかない。
おくめは、
「到底、今夜は相田さんにお目にかかって行かれそうもないね」
と、云った。
「あんまり更けないうちに帰らなければなるまいが――お前から、どうぞよろしく云っておくれ、のぶのことも、お世話をかけて真個に相すまないが、もう少しの間だから……」
やや改って、自分のことが云われると、のぶ子は、母親の傍から、ちらりと姉を偸見《ぬすみみ》ながら、頭を垂れた。
「ええええ、そんなことは一向かまいませんけれどもね。――実はのぶが、あまりずぼらなんでね。今月だって、新らしい本を買うとか寄附だとかいって余分のお金がいったのに、無くたっていい羽織なんか拵える気になるんだから」
予期したことながら、おくめは、何と弁解しようもなかった。
「こうやって相当に店なんかやっていれば、高が二十円や三十円の金と思うだろうが、決して、どこにも遊んでいる金はないんですよ」
ふさ子は、次第に、胸の衷《うち》の述懐を洩すような口調になった。
「相田だって、お役所の方がいつどうなるまいものでもなし、いざという時の要心に無理をして店を仕込んで置くようなものだもの……のぶちゃんだって、子供ではなし、ちっとは、自分の身の上も考えればいい」
おくめは、いやでも、何か、のぶ子のために口添えをしてやらずにはいられない心持になった。
「それはそうだろうとも。人の出入りだけでも容易なものじゃないから――のぶだって、小さい時から相当に苦労をしているのだもの、まさかそれを知らない馬鹿ではあるまい。――真個《ほんと》に、親甲斐なしで……厄介ばかりかけるね」
ふさ子は、黙って、頭を傾け、眉をよせて簪《かんざし》で髷の根をかいた。
「阿母さんだって、どうにかなりそうなものだのにねえ」
やがて、ふさ子は、重苦しい四辺《あたり》の雰囲気の裡で、投げ捨てるように呟いた。
「この間、お順さんが来たときにも、そう云っていましたよ。相当な人さえ仲に立てれば、たとい法律ではどう定《きま》ろうと、阿母さんの暮し位のことは、六蔵さんがどうにでもする積りなんだって」
前後の続きから、おくめには、その言葉がどうしても、家の血統とか相続権とか、喧しいことは云わないで、貰えるものは貰って、のぶ子の学資でも助けたらよいではないか、という風にほかとれなかった。
訴訟を起したり、弁護士を雇ったりして、柄にない騒ぎをしたことからが、馬鹿馬鹿しいという口吻《くちぶり》を聞くと、おくめは、口惜しさで、かっとするようになった。
奥へは洩れないように、気を緊めて声を低め、彼女は、
「馬鹿なこと! 誰がそんなことを出来るものか」
と、鋭く娘の言葉を撥《は》ね返した。
「私は筋の立たない金なんぞは、たとい半文も受けたくないと思うからこそ、他人から見れば、しずともいい苦労をして来たのではないか。始め、六蔵を裁判に立たせたのだって、決して、取られた、金を取り返そうためばかりではない、私の云い分と、あっちの遣り口と、公の眼で見ていただいて、どっちが正しいか、それをはっきりさせたいばかりでしたことじゃあないか。ああやって、毎日顔と顔とを見合わせている裏で、あんな企らみがあったかと思えば――おばあさんも憎いが、判るところを判らせない検事にも、私は愛素をつかしてしまった」
熱して話し、姉妹を見較べたおくめの瞼には、強い火照《ほて》りと一緒に涙が滲《にじ》み上って来た。
「それというのも、皆、お前達のお父さんが、ああだったからのことさ」
おくめの声には、何ともいえず、寂しい曇がかかって来た。
「お前方のお父《とっ》さんさえ、確かり家を守っていてくれさえしたら、あれもこれも、皆、無くってすんだことなのさ。お前達は、親のおかげで苦労するとお思いだろうが……阿母《おっか》さんだって、……若い時から決して楽をして来たのじゃあないよ」
ふさ子はうつむいて火鉢の灰をならし、のぶ子は、微《かすか》に涙組み、明るい茶の間の中では、誰一人口を利くものがなくなった。
おくめは、野州の有名な織屋の後取娘に生れた。彼女は十八の時、ふさ子の良人の父方の親類から、養子を貰った。二人の間は、さほど折合わない訳ではなかったが、清五郎というその養子が、山師で、何ぞというと、大掴みに家の金を持ち出しては、どこかへ失くして来た。ただ一人血統を伝えた家の後継者という責任を負わされた彼女は、子供達が三人も出来てから、離縁の相談を迫られた。家が大事と思い込まれていたおくめは、烈婦になった心持で、離別を承諾した。その代り清五郎との間に生れた息子は戸主になり、彼女の一生と子等の将来は安全に保障される筈であった。その誓約にも拘らず、老齢な祖父が死ぬと、公証人を弟に持った義祖母のつなが、あらいざらいの財産を抵当に入れて、自分の甥に受けさせた。
思いも設けない策略で家産を失ったおくめは、愕き憤って、法律に訴えた。けれども、何にしろ相手は商売人にかかっているので、予想通り事件が進捗しないうちに、何より代え難い、息子にまで死別した。
皆で※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12、257−18]《むし》り取ってしまえば、分け前といってもさほど無い位の財産のために、おくめは、却って貧しければせずともよい心の苦闘を経て来た。それも、今では、徒に心の苦しみばかり彼女のために遺されたものといってよかった。僅か三十の時に良人を去り、十五年の間、おくめは、危うい手許に、やっと生き残った二人の娘を抱えて来たのである。
三
久し振りで出かけたのだから、おくめは、きっと泊って来るものと沢田の家では思っていた。
けれども、十一時過て、そろそろ寝に就こうかという時分、彼女は、不意と格子を開けて帰って来た。
「まあ、帰って来たの? 泊って来たってよかったのに」
主婦の前に、おくめは、先ずぽくりと頭を下げた。
「ただいま」
「どうだって?」
「有難うございます……」
不思議に言葉少いおくめを見、米子は、怪しむような表情を浮べたけれども、何か、彼女を寡黙にさせた原因が麹町であったのだと察したらしく、米子は、それとなく、おくめの前から立ち上った。
「草臥《くたび》れただろうから、緩《ゆっ》くり休むといいわ。こちらはもういいから」
それに対しても、おくめはただ、黙って頭を下げた。そして、自分の部屋に入り、襖をしめ、出がけとは正反対ののろさで、ゆるみかけた帯を、畳の上に解き落した。片隅に小机を置き、袋戸棚のある四畳半はまるで、今までとは別なところのような心持がする。
「それにしても、何という思いがけないことを聞いたものだろう」
市ケ谷の、淋しい夜道でのぶ子と別れてから、おくめの心は、驚とも、感動とも名状し難い動揺で一杯になっていた。
自分が非難される位置にあった故か、のぶ子は、姉の前では、気になるほど、無口であった。
おくめが何か云っても、「ええ」とか、「そうですか」というような短い言葉で受け答えするばかりである。
けれども母親の口添えで、ともかく必要なだけの金は出して貰うことと定《きま》り、おくめが、
「それではもうそろそろ帰ろうかね」
と云って立上ると、のぶ子は、
「じゃあそこまで送って行ってあげますわ」
と云いながら自分も一緒に停留場までついて来た。
勤人風の家並の多い、宵の静かな往来を歩きながら、二人は、ぽつぽつと種々の話をした。四辺がひっそりしているせいか、先ず用向は済んだという寛《くつ》ろぎからか、母娘《おやこ》は、始めて、のうのうした気持になった。そして、一層親密に、姉の家庭の噂などしているうちに、のぶ子は突然、
「あのね、おっかさん、大阪の方から何か便りが来て?」
と訊ねた。
「大阪?」
おくめは、意外な面持をして、娘の顔を見ようとした。が、道は丁度大きな屋敷の樹下闇《このしたやみ》で、それと思われる輪廓が、仄白く浮立って見えるばかりである。
母親が何とも云い出さないうちに、のぶ子は、
「今、こっちなのよ」
と云い足した。
「先月から東京にいるんですって……」
このことを話すのに、のぶ子は一切相手の姓名を云わなかった。まして、「阿父《おとっ》さん」などという言葉はかりそめにも口に出さなかった。が、おくめには、勿論、すぐに先が誰であるか、推察がついた。昨今、大阪で暮しているということだけは、彼女も、去った良人の唯一の消息として伝聞きながら知っていた。けれども、一旦、縁を切ったからは、恥辱のように思って、彼女は、正確な住所さえ知ろうとはしなかった。便りをしようなどということは、夢にも思わずに、長い間、思い出ばかりを胸に蓄えて来たのである。
「それを、どうしてのぶ子は知っているのだろう」
流石《さすが》に、おくめは動悸の速まるのを覚えた。
彼女は暗い足元を拾うように下を見ながら、
「どうしてお前判ったの?」
と訊き返した。
「前にもちょいちょい会ったことがあるんですもの――」
のぶ子は、優しく弁解するような口調で云
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング