た、その面影に対して動いて行く彼女の心も、果して五十近い婆《ばばあ》の心持ばかりと云えただろうか。娘等に対すと、本能的に長者らしく働く彼女も独りでに懐《おもい》に沈むと、決して老い朽ちぬ苦労人の述懐ばかりではなかった。
「あの女房子も思わない、金使いの荒い男が、どんなに変って来ているだろう。
大阪の方では、いずれ妻子を持っているのだろうが、どんな暮しをしているのか」
おくめは、早速その沢屋という宿屋に出かけて行き、精《くわ》しくその後の模様を訊きただしたいほどの心持がした。彼のお陰で、自分があれからどれほどの苦労をしたか、思いのたけをかき口説いて、済まないと思わせるまで責め抜いても見たい。
「のぶ子が、あんな間際になってから、不意と父親の居場所を明《あか》したのも、若し会ったら、という念があったからではないだろうか」おくめの胸には、何ともいえない顫えが湧き起った。
「若し万一、男も自分同様独りでいて、若い時分のことも気の毒に思い、それとなく子等を仲に立ててまた、新しく縁を戻したいとでも思っていたら……」
おくめは、その想像に堪えないように深い溜息をついて寝返りを打った。けれども――そんなことが果してあり得ることだろうか……彼女の頭には、追々実際的な反省が浮んで来た。「よしあったとしても、一旦、家のためとはいいながら、末の見込みがないと思って棄てた良人を、未練らしくよせつけることなどが、娘等の手前、世間の手前、出来ると思うことだろうか……」
次第に亢奮が鎮り、一時燃え立った歓ばしい空想が色褪ると、おくめの心の裡には、老齢らしい種々の疑惑が頭を擡《もた》げて来た。
第一、いくら年を取ったからといって、あの家を構わなかった男が、急にそう生み放した娘の身などを思うとは受取れない。
「東京に出て来たというのも、のぶ子に手紙をよこしたというのも、つまりは、あれを食いものにする積りなのではなかろうか」
どこかで、のぶ子が来年にでもなれば一本立ちの出来るのをきき知り、今から手馴ずけて、いざという時、僅かの金でも出させようとする魂胆は、おくめにとっては決して、あり得べからざることとは思えなかった。思いがけないことを聞いたあまり、年甲斐もなくよい方へ、よい方へとばかり想像を走らせていた自分が、やがては嗤《わら》うべきもののようにさえ感じられて来た。
「追々自分も年を取り、心弱くなっているところへつけ込んで、母親もろとも、二度のだしに使おうとする下心が決してないと、誰が云えよう――がそれにしても……」
おくめの魂は、深夜の宙に迷って、幾度となく、沢屋の辺を彷徨するように見えた。
悪いなら悪いなりに、よいならよいなりに、直接彼の口から、何故東京へ出て来たのか、何故のぶ子へは便りをしたのか、訊き定めたい欲望が、体も火照《ほて》らすほど苦しく、強くおくめの胸にこみ上げて来たのである。――
うとうととしたかと思う間もなく、もう起きなければならない時が来た。
おくめは、寝不足と焦慮とで膨《は》れぼったい瞼を、強いて何気なく装いながら、定った朝の用事をした。
主婦の米子は、何も心付かないらしく、昨日の様子を訊こうともしなければ、話させようともしない。けれども、黙っているおくめの心は、刻々に満ちて来る思いで、今にも溢れそうになって来た。
珍らしい小春日和で、縁側には、畳の上まで長閑《のどか》な日が、ぽかぽかと差し込んでいる。
裏を返してほした夜具の濃い色などを渋い眼にまばゆく感じながら、膝をついて雑巾などをかけていると、彼女の手は、いつしか一つところに止ったまま動かなくなった。はっと思って、四辺を見廻し、大いそぎでしかけた仕事を切りあげる。――
ともかく昼もすませると、おくめは、息苦しくて、息苦しくて、到底家の中などに凝っとしてはいられない心持になって来た。
縫物をとりあげても手につかない。主婦と、世間話もしていられないほど気がせける。何をどうということはない。まるで、家中の空気が急に堅くひしひし四方から自分を緊めつけるようで、おくめは、おちおち瞳《ひとみ》を定めてもいられないように感じるのである。
彼女は到頭、外出の口実として買物を一つ思いつけた。新らしい寝具を一揃え新調した米子は、この間うちから、一つ夜具風呂敷を拵えようと云っていたのである。
おくめは、止めろと云われない用心に、ちゃんと着物まで換えてから、何気なく、
「奥様、お砂糖を買いかたがた、お風呂敷も買って来ようと思いますがいかがでしょう」
と、米子の前に出た。
「そうね、別にいそぐわけでもないけれども……」
「でも――ついでに買って置きませんと、なかなか縫えませんですから……」
決してこれは理由《わけ》のない申出ではなかった。
「――それなら行って来ると好いわ。緑
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング