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鴎外は、歴史小説という意味では、「高瀬舟」の中に、このいずれの点をも追究していない。作者としての主観にいきなり立って、財産についての観念、ユウタナジイの問題に興味をひかれているところがまた私たちには面白い。鴎外の主観は、一方に昔ながらのものを持ちつつも、やはり明治は四十五年を経て大正と進んで来ている時代の知識人の主観であって、その主観は既に身分としての武士と庶民とを自身の感覚のうちに感じ分けてはいず一般人間性にひろがっている。一般人間性のこととして、喜助の財産の観念にもユウタナジイのことにも興味をひかれている。鴎外のこの進歩性に立つ面も、更に一層歴史に対する観念の進んだ立場から顧みられるとき、彼が一般人間性に歩み出した新しさに止って、人間性をその先で具体的な相異においている社会的な関係へは洞察を向けていないことで、それ自身一つの歴史的限界を示しているのは、何と意味深いところであろう。
鴎外の歴史小説が、その本質に於て作者の主観の傾向に沿って一般的な人間性の方向へひろがって行ったことは、「寒山拾得」にも十分うかがえるし、「じいさんばあさん」のような余韻漂渺たる短篇にもあらわれている。
この過程を通って、やがて鴎外が「椙原《すぎのはら》品」のような事実に即した作品をかくようになり、大正五年からは「澀江抽斎」「伊沢蘭軒」等の事実小説と云われている長篇伝記を書くようになったことも様々に考えられる。
歴史小説において、歴史の時代的な枠としての社会関係を明瞭に意識し、その枠に支配される人間の苛烈な相互関係を現実的に把握せず、枠は枠なりにしてその内での範囲で人間を見てゆけば、作者の近代の心の主観で、それが当時の身分の差に内容づけられない一般的な人間性として感じられるようになるのは当然の道行きと思われる。しかも、鴎外の実生活の閲歴は、人間の主観が客観の世間では誤って評価される場合もある悲劇を熟知しており、むごく扱われる結果のあるのも熟知している。作者の主観に足場をおいて達観すれば、やがて、そのような主観と客観との噛み合いを作家としての歴史の底流をなす社会的なものへの判断で追究し整理するより、現象そのままの姿でそれを再現し語らしめようという考えに到達することは推察にかたくない。特に自身の生活態度に於ては封建的なものの一つとして世俗な力に従う傾向のあった鴎外がほかならぬこの道を、歴史小説に於て辿ったことも肯けるのである。
鴎外の歴史的題材を扱った作品の、略《ほぼ》「栗山大膳」ぐらいまでを歴史小説と云い、「澀江抽斎」「伊沢蘭軒」などを事実小説とする斎藤茂吉氏の区分も、私たちには何となしぴったりしない。最後の二作は伝記であると思われる。小説という文字が使われなければならないとすれば、それは伝記小説と呼ばれてはいけないのだろうか。
芥川龍之介が、漱石に推賞されたのは「鼻」という歴史的な題材による作品であった。「羅生門」「地獄変」「戯作三昧」その他、芥川龍之介の作品には歴史的な人物を主人公としたり、古い物語のなかに描かれている人物をかりた作品が多い。
大体、大正初頭、鴎外が歴史小説に手を染めはじめた時分から数年間、日本の文学に歴史的な材料を扱った作品が多くあらわれた。そして、それが、各々の作家たちを新しい道に押し出し或は文学に初登場させたばかりでなく、それから後につづく十年の間にそれらの作家たちが時代の推移につれて激しく社会と文学とに揉みぬかれなければならなかった。その時に当って、各作家が自身のものとして示した生きかたの萌芽が、すでに、この大正初頭の、歴史的素材へ向う各作家の態度のうちに含まれていたということは、歴史的文学のこととして今日私たちに実に教うるものが多い点だと思う。
「地獄変」「戯作三昧」にしろ、芥川龍之介が王朝の画匠や曲亭馬琴を主人公としてその作を書いたのは、決して所謂歴史小説を書こうためではなかった。人物と時代とを過去にかりて、テーマは作者自身の現実生活に横わっている芸術上の勇猛心を描こうと試みたものであり、或は文学における芸術性と社会性との問題についての疑いを語ろうとしたものであった。テーマは作者の主観において極めて生々しいものであり、当時の日本の文学の諸相との関係では、文学論議の中心課題をなした問題であるという客観的な重要さも持っていた。芥川龍之介は、それらのテーマを何故、殊更絵巻風の色調に「地獄変」として書かなければならず、侘びの加った晩年の馬琴の述懐として行燈とともに描き出されなければならなかったのだろうか。
芥川龍之介という作家は、都会人的な複雑な自身の環境から、その生い立ちとともに与えられた資質や一種の美的姿勢や敏感さから、それらのテーマが主観のうちに重大であり、客観的に注目をひくものであればあるだけ、い
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