きなりの表現で描き出すことは避けてゆくたちの作家であったと思う。重要な作品のテーマであれば、それにふさわしい表現の手段が彼としては無くてはならず、しかも、西欧の文学に通暁していたこの作者が、題材として手柔らかな、纏めやすく拵えやすい過去の情景へ向ってそれを求めたということの精神の機微にも目をひかれる。西欧の芸術家、たとえばトルストイなどは、身近な芸術上の巨人として、文学の芸術性と社会性との問題などでは身を挺して苦悩し、その判断に矛盾をも示した芸術家であったと思う。芥川龍之介の精神は、何故この或る日のトルストイを作品の主人公とはせず馬琴を択んだろう。
芥川は日本の作家である。其故という説明も心理の一つの必然にはふれている。しかし、そればかりではないものもある。芥川のなかに潜んでいた或る弱さ、或る常識的な賢さ、それらのものも、彼の目を馬琴に向けさせる力となったと云える。馬琴自身は芸術の問題として芥川が「戯作三昧」に描き出したテーマの性質に於ては、苦悩しなかった人である。そこに踰《こ》えきれない時代の相異が横わっている。歴史の必然がある。芥川龍之介は、文学的風趣によってそこをさりげなく、知らぬふりに歩みこしているのである。
歴史に向ってのここの作家的態度は、恐ろしいほど複雑で且つ心理的なものであったから、芥川は、時代の歴史の濤が益々つよく激しく我が身辺にたぎり立ったとき、彼の主観に亡霊のように立ちこめた「何となしの不安」を歴史の眼によって抱きとることも出来ず、克服することも不可能であった。主観は主観の無限地獄を掘り穿って、そこに彼の犀鋭な精神は没入し去ってしまったのであった。
芥川龍之介の歴史に対する態度、それが彼の人及び芸術家としていかなる必然に立っていたかということは、同時代人である菊池寛の歴史的素材を扱った初期の短篇をみると、驚くべき対照をなして愈々明白である。
菊池寛の「忠直卿行状記」以下三十篇ちかい歴史的素材の小説も、やはり歴史小説でないことでは芥川の扱いかたに似ているが、芥川龍之介が知的懐疑、芸術至上の精神、美感、人生的哀感の表現として過去に題材を求めたのとは異って、菊池寛は、自身が日常に感じる生活への判断をテーマとして表現するために歴史上の事柄、人物をとりあげて作品を描いているのである。
「忠直卿行状記」もそのような作品の一つである。作者は、忠直卿という若い激しい性格の封建の主君が、君臣関係のしきたりによって自分がおかれている偽りの世界への憤懣から遂に狂猛な暴君のようになり、隠居とともに天空快闊となった次第を語っている。作者は忠直卿とともに、人間関係の真率、偽りなさ、まことの現実を求める人間の情熱を辿ってはいるが、虚偽を生む社会関係を主体的に忠直卿から判断させてはいない。被動的に隠居仰せつけられその外力によって、社会関係の一部が変えられる迄は、さながら、自分からの解決の方法はないように旧態にとどまっている。ここが作者の人生態度としてもなかなか面白い点であろうと思う。忠直卿は、昔の殿様としてはびっくりするくらいむき出しのヒューメンな若者として扱われており、その点では作者が一見常識を蹴とばしているようだのに、さてそれならそのように苦しむ自分を虚偽と知らぬ虚偽でとりかこみ、それを命にかけて守っている者どもとの関係を我から一擲変更して、ええ面倒な、と隠居してしまうところまで飛躍してはいない。やはり仰せつけられるまではそこにいて、自分と周囲を不幸にしている。世の中をそのようなものとして、作者は見ているのである。
菊池寛は、歴史的題材をあつかったあらゆるテーマ小説で、封建的な勇壮の観念、悲愴の伝統、絶対性への屈服、恩と云い讐というものの実体等に対して、真正面からの追究を試みている。菊池寛は文学的出発において、バアナード・ショウの影響を蒙って一種の合理主義の人生観に立っていたと云われている。けれども、彼におけるその合理主義は決してショウのものではなくて、菊池寛という一個の日本の作家の身についているものであったことは、その合理性そのものが、当時の日本の思想と文学潮流とにとって或る意味では生新なものであったにかかわらず、本質の要素に日本の自然主義的な日常性と常識とをひきついでいたことからも明らかであると思われる。
この点でも菊池寛は芥川龍之介と対蹠をなしている。
菊池寛は、「三浦右衛門の最後」「俊寛」等で武士道徳のしきたりよりも更に強い人間の生命への執着と生の力の強靭さというようなものをその原形において押し出している。風変りな俊寛は、鬼界ヶ島で鬼と化した謡曲文学の観念を吹きはらって、勇壮に鰤《ぶり》釣りを行い、耕作を行い、土人の娘を妻として子供を五人生み、有王を驚殺するのである。日本の封建の伝統が近代日本の心にも伝えている
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